未来の日本史博士の時典

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聖武天皇は何がしたかったのか?について考察

どうも未来の日本史博士です。

今回は聖武天皇の謎の遷都の考察と、聖武の治世下の天平文化についてです。この記事を読む方はぜひ前回の記事を読んでからこちらに舞い戻ってください。以下リンクからどうぞ。

gonikyuroku.hatenablog.com

聖武天皇の謎の遷都についての考察

あの遷都にどんな意味があったのか。副題をつけるならばこんな感じですね。早速考察していきます。今回当方が挙げる考察は以下の通りです。

①人民の寄付などから大仏を造営する資金を得ようとした場合

②天変地異から逃れようとした場合

聖武が大仏を作る上で邪魔な勢力が平城京に存在していた場合

では順番に考察を述べていきます。

①の場合の前提ですが、豪族たちに資金を出させる方式での造営方式が執られました。しかも国家の事業としてではなく、個人の自発的な寄付、寄進、献身を主体としています。そうするには政治機能の持った平城京は邪魔なんですよね。政教分離ってやつですよ。そこで紫香楽を拠点として、また恭仁を中継基地として造営していく。でも全てがそんな上手くいくはずはなく、想定通り紫香楽造営計画は頓挫。で、平城京で造営するという計画が持ち上がり結局平城京での造営になる、こんな感じの流れです。

②の場合、この当時は藤原四兄弟天然痘で亡くなるくらいに人々にも伝染しています。しかも調べたところ、聖武治世下には734年畿内七道地震、745年天平地震(これを機に難波京から平城京へ帰還)などたくさんの天変地異が発生して、それを避けるために遷都したと思われます。

③の場合の考察。果たして聖武の敵となる人物がいたのでしょうか、ということについて調べてみました。でもやっぱりその時代に作られた書物は天皇の命で作られたものが多いので天皇の政敵なんぞを記していないと思うんですよね。いろいろ読んでみたんですが、やはり見つからないんですよね~。という訳でこの案はちょっと考えにくいですよね。

とかくまぁ、①、②の考察が正しいのかと思われ、これがつまり史実になるってことですね。

今回は遷都について考えました。あの時代はいろいろあったんですね~。まだまだ謎も多いので歴史はとても面白いんです!

次回は聖武天平文化についてです。乞うご期待!

 

猿でも分かる平城京と律令と天皇に関わり

どうも未来の日本史博士です。

今回の内容は藤原京から平城京に移るまでの流れの解説ですね。今回の話題は割とレアケースな運命をたどった天皇を紹介します。

じゃあ早速始めましょう!

 

平城京元明天皇


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前回紹介した文武が25歳で崩御しました。文武の息子には首皇子(おびとのおうじ)が遺児として残されていたんですが、たったの7歳で皇位を継承することができなかったので中継ぎとして文武の母である元明が即位しました。この血統での即位の仕方、つまり前の天皇から母親に継承されたという仕方は元明だけです。

じゃあ彼女の事績を解説しています。この翌年に秩父から和銅が献上されたことを瑞祥とみなして年号を和銅に改めました。そして貨幣を鋳造しました。これが和同開珎です。さらに2年後の710年に藤原京から平城京に遷都しました。さらに2年後、「古事記」が編纂されて元明に献上されました。

 

平城京の概要


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公式サイト  平城宮跡クイックガイド

唐の都・長安を模倣して建造したものです。最初は内裏程度の建造物しかなかったそうなんですが、徐々に増築されていったようです。平安京に遷都した後も平城京に遷都する計画や陰謀を企てた天皇もいました。その件についてはまたいつか紹介します。

敷地の形は平安京のように碁盤の目のように区切られているんですが、右京と左京の他に左京の外に外京がありました。中央の道は朱雀大路という名前で羅城門から平城宮に続いていました。4~5kmほどあったみたいですよ。ちなみに藤原京のなかで藤原宮(要するに政庁の中心である大極殿、朝堂院があった場所)は都の中心にあったんですが、平城宮の場合は平安京同様北の端にあったようです。


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引用:wikipedia
至る所に興福寺東大寺といった寺院が散在し、仏教的な影響を排除しようとして桓武天皇が遷都に踏み切るきっかけとなりました。

元正天皇


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元明首皇子皇位を継承するための中継ぎだったんですが、元明が老衰を理由に譲位を理由に譲位の意向を示した時にはまだ首皇子はまだまだ若かったので文武の姉が皇位を継承し、元正天皇となりました。現象は独身で即位した初の女性天皇で、かつ、歴代で唯一母から娘へ皇位を継承した天皇です。これまた激レアケースですよね。701年に制定された「大宝律令」を改訂して「養老律令」を制定しました。「養老律令」は今までの律令と変わりは無いので歴史的意義はそこまで大きくないんですが、「大宝律令」は現存していないので「養老律令」をもとに推測して研究を進めたそうです。720年には「日本書紀」を完成させました。さらには班田収授法を発展させて3代までの私有を認めた三世一身法を発布して農地の開墾を奨励しました。その後ようやく元正が譲位して首皇子、つまりは聖武天皇が即位して時代が変わり始めるのです。 

次回は聖武天皇について、です!

 

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今こそ知りたい仏教の発展と聖武天皇の関わり

どうも未来の日本史博士です。

今回は教科書でも割と細かく掲載されている聖武天皇についてです。知らない人はいないと思いますが、できるだけ詳しく解説していきます。それでは早速行きましょう。

聖武天皇の即位の成り行き

聖武の父親の文武が若くして崩御し、祖母の元明、伯母の元正が中継ぎとなりようやく24歳になり元正からの譲位によってようやく即位しました。こうして聖武の誕生となりました。ここまでの成り行きの詳細は下のリンクからどうぞ。

gonikyuroku.hatenablog.com

長屋王の変

事の発端はこう。聖武の母・宮子に「大夫人」の称号を与えることにしました。ちなみに宮子は藤原不比等の娘で文武の皇后です。そして左大臣長屋王が当時の規定に反するという理由で批判しました。ちなみに長屋王は天智、天武の孫なので藤原氏にとっては目の上のたんこぶみたいなもので一刻も早く排除したい存在でした。そのため、藤原四兄弟長屋王に謀反の罪を着せて館を襲撃、自殺に追い込みました藤原四兄弟不比等の子供たちで、光明皇后の兄たちでもあります。

聖武が頼った仏教

聖武天皇といえば大仏とか、東大寺国分寺のイメージが強いですよね。それは聖武が天変地異から日本を守ろうと仏教にすがったからです。その天変地異とは例えば藤原四兄弟を含め多くの人民が天然痘によって死んだ、とかです。そういう訳で諸国に国分寺国分尼寺を建立したのです。最後に総仕上げに東大寺の建立に力を注いだんです。この東大寺南都六宗平城京で栄えた華厳宗法相宗律宗三論宗成実宗倶舎宗)の大本山でありとにかく総仕上げなのです。盧舎那仏(本尊の大仏)は743年に詔が出されて造営が始まりました。752年にインドから菩提僊那を招き開眼供養会を催しました。この時娘の安倍内親王に譲位して上皇になっていました。安倍内親王に関しては次回の記事で。

東大寺の大仏建立とその結果

見たら分かると思いますが、あんなバカでかい大仏をどうやって作ったのでしょうか?

あの大仏高さは15mと世界最大級ですからね。じゃあ作り方を教えます。

①木で枠組みを作って、粘土で原型を作る。

②原型に土を盛って中型を作り、隙間を空けて土を盛って外型を作り、中型と外型の間

に銅を流し込む。

③全ての行程を8回行って外型を外して完成!

こんな感じです。まあこれを知ったところで大したことはないんですが…。ちなみに大仏の上半身は戦災で焼失して再建されていますが、下半身は当時からのままで現存しています。でも結果はどうなったのか。これが大事です。仏教にすがって救いを求めるのはいつの時代でもそうですが、(ここから話すことは仏教を侮辱しているわけではありません)結局仏教の力に頼っても病気は治らないんですよね。そりゃそうでしょ、って感じですが…。大仏建立後は仏教による国家安寧を求めた聖武でしたが、大規模な工事によって財政は悪化して、さらに農民層にとってはとてもきつい負担で餓死する人が増えて真逆の結果、つまり社会情勢は悪化してしまったのです…。

聖武、謎の遷都

聖武天皇の事績の中で仏教関係の事柄に埋もれてあまり知られていないですが、何度も遷都を繰り返した天皇なんですよ。とりあえず成り行きでも語ることをいたしましょう。まず、740年に藤原広嗣の乱ってのが起こるんです。その最中に平城京を離れて伊勢や美濃まで行幸して山背国(今の京都府)の恭仁京大阪府にあった難波京に遷都、そして近江国(今の滋賀県)の紫香楽宮の造営に乗り出します。でも紫香楽宮周辺で不審火や地震が相次いで発生して結局平城京に帰ります。ここまでで約5年の歳月を費やしました。一体、何故こんな奇妙なことをしたのでしょうか?軽く考察を書くので気が向いたら読んでみてください。

続く。

 

 

律令政治とは何ぞや?について解説

 

どうも未来の日本史博士です。

天武天皇の解説を終え、次は天武の妻であり、天智の娘の持統天皇についてです。

「令和」という元号が発表されて、徳仁皇太子殿下が即位した後、今上天皇はどうなるのかといいますと、上皇という称号に変わるんですよね。そこで今回の話に絡めますと、持統天皇こそが日本で最初に譲位をして、上皇となった天皇なんです!

じゃあ、豆知識はこれくらいにして、解説をはじめます。 

 

持統天皇の治世


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この人物も立派なお方なようで歴史学の観点からも男女平等への活力剤にできればと思っているんですが、どんな人物なのか紹介していきます。

13歳で天武と結婚し、吉野へ隠棲した時や壬申の乱を起こした時も天武に付き従っています。天武が崩御した後、遺志を継いで即位しています。ただ、どうやら息子の草壁皇子をどうしても天皇にしたかったらしく、大津皇子に謀反の罪を着せて死に追いやりました。残念ながら草壁は夭逝、今度は草壁の子供である軽皇子を即位させようとしました。そういう訳で譲位に踏み切ったんです。

内政に関しては、飛鳥浄御原令を施行し、藤原京に遷都しました。

文武天皇

持統に15歳になったときに譲位され、天皇となりました。文武単体での事績ではあまりなく、持統の後見で政務が行われていました。最も有名なのが大宝律令の制定なんです。大宝律令の制定によって、太政官の下に8つの省などを設けて政府の体制を整えました。さらに班田収授法で口分田の管理を徹底され、租庸調などの税制のシステムを確立しました。

文武の皇后にはあの中臣鎌足の息子・藤原不比等の娘の宮子を迎えて藤原一族の繁栄の礎となりました。

<h2藤原京


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(朝堂院(手前)と大極殿(奥))

引用:manyuraku.exblog.jp

律令政治が今回のメインの話題のはずですが、藤原京の話も割とメインなので二本立てという感じでここからは読んでください。藤原京は唐の都・長安をもとに作られた、日本で最初に作られた大規模の都です。周囲は耳成山畝傍山天香久山に囲まれた戦国時代でいうところの「天然の要害」的なものです。別に敵が攻めてくるわけではないんですよ。ただ飛鳥浄御原宮の近くに広い平野があったからでしょうね。今も朝堂院(っていう儀式や政務を行う政庁)の南門の復元模型がありますよ。

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ここを拠点に持統は朝廷の政権の強化に努めていたと思うと個人的には何となくロマンチックだな~なんて考えてしまいますね。

今回は飛鳥浄御原宮から藤原京に移るまでの一連の流れを書きましたが、次回は藤原京から平城京への流れを書きます。

 

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今こそ知りたい天智と天武〜日本を変えた兄弟〜

どうも未来の日本史博士です。

以前、大化の改新皇極天皇について書きましたが、今回は大化の改新を断行した天智天皇、そしてその弟・天武天皇について解説していきます。では早速始めます。

天智天皇

言うまでもなく大化の改新の中心人物ですよね。中大兄皇子というのが即位前の名前です。大化の改新の記事についてはこちらから。

 

gonikyuroku.hatenablog.com

 

天智についてはそれなりの量を書いたのでここはあっさりと…

そもそも即位するまでにいろいろありまして、そこからお話します。皇極の亡き後称制(即位しないまま政治を行うこと)に就いていました。なぜなら乙巳の変を起こした天智は天皇の位につくために蘇我氏を滅ぼしたと誤解されたり、反感を買いかねなかったからです。そんな中で朝鮮の百済が滅ぼされ、救援を求めてきます。これが白村江の戦いです。唐の水軍は楼船と呼ばれる巨大な船て倭軍を圧倒、完全勝利を収めます。やはり中国は侮れませんね〜。このときようやく即位しました。唐や新羅が攻めてくる可能性があったのでもともと都のあった飛鳥より内陸の近江に遷都し、九州に山城や水城を築いて防衛をしていました。

死の間際天智は皇太子を大海人皇子(後の天武・天智の弟)から大友皇子(後の弘文・天智の息子)に変え、大友皇子太政大臣に任命します。その後46歳で崩御します。

弘文天皇

明治までそもそも天皇として認められていませんでした。日本書紀にも記載がないんです。さあ、なぜでしょう?

答えは単純。日本書紀の編纂を命じたのが天武だから(ちなみに天武については2巻分書かれています。)。弘文と天武が争ったのが壬申の乱ですからね。結果、壬申の乱に敗れ史上唯一の自殺した天皇となってしまいました。まあ自殺未遂をおこしたり、譲位してから自殺した天皇もいるのでそのうち紹介します。

天武天皇

 

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今記事のメインパーソンはこの人物です。

では天智の死の間際に話を戻しましょう。天智が大友を皇太子にしたとき、大海人(後の天武)は天智の考えを察して吉野へ隠居します。そして天智が崩御した後、行動を起こして、近江朝廷軍を包囲、壬申の乱が勃発します。

話はそれますが、乱の場所が瀬田の唐橋周辺なのである意味「天下分け目の関ヶ原」なんですよ。結果的に内部分裂などが発生して統制が取れなくなった近江朝廷軍が瀬田の唐橋で敗北し弘文が自殺、乱は終結しました。

その翌年、飛鳥浄御原宮を造営して即位し、国家改革に取りかかりました。まずは八色の姓(やくさのかばね)」の制定です。身分秩序を確立させることで天皇中心の政治を作り上げることに成功しました。さらに言うと「日本」や、「天皇」の言葉を初めて用いたのも天武が最初です。律令国家の建設に大きな役割を果たした天皇でした。

今回はここまで。次回以降もお楽しみに!

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今こそ知りたい過去の元号を解説!

どうも未来の日本史博士です。

4月1日の菅官房長官の会見で新元号は「令和」に決まったわけですが、f:id:gonikyuroku:20190402201856j:image
さて今回の話題は新元号にちなんで過去の有名な元号について掘り下げていこうと思います。ではどうぞ。

大化(たいか)

日本最初の元号ですね。中大兄皇子らが大化の改新を起こしたときにつけられた元号です。詳しくは下のリンクからどうぞ。

gonikyuroku.hatenablog.com

じゃあ次行きます。

和銅(わどう)

日本最初(富本銭の方が先だった)の貨幣・和同開珎の発行の年です。

霊亀(れいき)

別に有名じゃないですよ。ただ元号がR表記になるのは霊亀以来ってだけです。

天平(てんぴょう)

聖武天皇の治世です。天平文化で有名ですよね、仏教が盛んでしたね。ちなみにこの後天平感宝天平勝宝天平宝字天平神護神護景雲と四文字の元号が続きます。

貞観(じょうがん)

中国には実に上手く成功した改革があるんですよ。それが貞観の治です。確か唐の時代だったかな?専門外なんですみませんが調べていただければ…それをそのままもらってつけた元号です。

保元、平治(ほうげん、へいじ)

いつかこのブログでも紹介するでしょう。前者は皇統の争い、後者は源平合戦ってのが概略です。時代を順番に追っているブログなのでもうしばらくお待ちください。

治承、寿永(じしょう、じゅえい)

源氏と平氏の内乱をまとめて治承・寿永の乱といいます。

承久(じょうきゅう)

承久の乱、それは後鳥羽上皇鎌倉幕府が戦った戦いです。北条政子の「頼朝公の御恩は海よりも深く山よりも高い」という演説はあまりにも有名ですよね。朝廷軍が勝っていたら武家政権なんて無かったと当方は推測しています。でも時代の流れってものがありますからどの道、幕府軍が勝ったと思いますけどね。

文永、弘安(ぶんえい、こうあん)

元寇。外国の侵略は久しぶりですね。神風で助けられたという話がありましたね。とにかく勝ったんです。ヨーロッパでモンゴルに勝ち、日本でも勝ったためモンゴルの領土拡大を防ぐことができました。歴史にifはないですが、もしも負けていたら世界共通言語はモンゴル語だったかも、ですね。

建武(けんむ)

後醍醐天皇の治世の建武の新政で有名な年号ですね。天皇に関することなのでもうじきこの記事を書きます。お楽しみに。ちなみに南北朝の時代に突入していく時代の転換点だったんですが、南朝は延元に元号を変え、北朝建武を使い続けました。その後はお互いに別々の元号を使いました。足利義満が将軍の時代、南北朝合一で元号北朝の明徳に統一されました。

観応(かんのう)

足利尊氏とその弟・直義そして高師直の争いである観応の擾乱があった時代です。

嘉吉(かきつ)

この年号の時に足利義教が暗殺された嘉吉の変がありました。

応仁(おうにん)

戦国時代の始まりになる応仁の乱で何よりも有名ですね。

文禄、慶長(ぶんろく、けいちょう)

朝鮮出兵の本名は文禄の役慶長の役ですね。慶長年間に大阪の陣もありましたね。戦乱の多い元号でした。その後徳川家康は元和に年号を変えて完全に徳川の時代となりました。 

江戸時代の有名な年号

ダイジェスト形式で一気に紹介します。

三代・家光が農民に向けて発布した「慶安」の御触書

江戸時代代の大火事で江戸城もほとんど焼失した「明暦」の大火

五代・綱吉治世下の上方で発展した「元禄」文化

新井白石の「正徳」の治、三大改革の「享保」の改革、「寛政」の改革、「天保」の改革

十一代・家斉治世下の江戸で発展した化政文化(「文化」、「文政」

明治維新の時の元号は「慶応」    

江戸時代で有名な元号はこんな感じでしょう。

明治、大正、昭和、平成

近現代に入って一世一元の制が定められ、数は多くありません。そのため昭和が日本で(世界でも)最も長い元号でした。ちなみに明治以前の元号は祝い事、天災、そして天皇崩御などで元号が変わっていたので元号はたくさんあったんです。例えば白い雉や亀が献上されたとかでも元号が変わっていました。(白雉、霊亀とか)

そして通算248個目の元号令和です。次の時代が楽しみですね!

先日発表!お城総選挙で選ばれたお城たちを解説!

どうも未来の日本史博士です。

今回の話題は先日放送されたお城総選挙についてです。その中でも今回は30位から26位まで詳しく解説していきます。

30位 丸岡城 

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〈基本データ〉

名称(別名) 丸岡城(霞ヶ城)
築城年 1576年(天正4年)
築城者 柴田勝豊
主な城主 柴田勝豊、本田氏、有馬氏
居城とした藩 丸岡藩
遺構 天守、石垣
所在地 福井県坂井市丸岡町霞1-59
特記事項 日本100名城36番
1月1日は無料開放

 公式ページ   丸岡城特集| たび・あそび 丸岡 坂井市丸岡観光協会公式サイト

 

この城は現存天守のなかで最も古い天守をもつお城と言われていましたが、坂井市教育委員会の調査で江戸・寛永年間に建造されたことが判明したそうです。丸岡城は北陸にあるお城なので瓦が割れるのを防ぐため石でできた瓦を使っているんですね。それと、丸岡城には人柱お静の伝説があります。これは知っている人も多いでしょう。ちなみに丸岡城のすぐ近くに「日本一短い手紙の館」というものがあります。

 

29位 岐阜城

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〈基本データ〉

名称(別名) 岐阜城稲葉山城
築城年 1201~04年(建仁年間)
1532~55年(天文年間)
1558~70年(永禄年間)
築城者 二階堂行政斎藤道三織田信長
主な城主 二階堂行政斎藤道三織田信長織田秀信
居城とした藩 なし
遺構 天守台、石垣
所在地 岐阜県岐阜市金華山天守閣18
特記事項 日本100名城39番

 公式ページ   岐阜城|岐阜観光コンベンション協会 

 

あの有名な織田信長が建造したお城で、金華山頂上に天守山麓に御殿があったというその時代では最新の構造だったようです。明治に入って日本で最初に観光目的で天守が再建されたものの、1943年に焼失、1956年に再建されました。山麓の信長居館には注目が集まっていて新たな研究成果が続々と出てくることでしょう。山に登るのは割としんどかったです。

 

28位 広島城

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 〈基本データ〉

名称(別名) 広島城(鯉城)
築城年 1589年(天正17年)
築城者 毛利輝元
主な城主 毛利輝元福島正則、浅野氏
居城とした藩 広島藩
遺構 石垣、堀
所在地 広島県広島市中区基町21-1
特記事項 日本100名城73番

公式ページ   広島城 Hiroshima Castle Rijo

 

広島市の三角州地帯にあるお城。毛利輝元が「島普請」で10年かけて作らせただけあって、大小2つの天守やたくさんの櫓が建ち並んでいたようです。その後輝元は関ヶ原の戦いで敗戦し萩へ移封、福島正則福島正則は石垣の無断改修を咎められ改易、浅野氏が明治まで続きました。明治以後は陸軍用地、そして天守が原爆で倒壊してしまいました。1958年再建です。再建されてはいるものの黒塗りの天守はきれいでしたよ。

27位 忍城

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〈基本データ〉

名称(別名) 忍城(浮き城、亀城)
築城年 15世紀後半
築城者 成田氏
主な城主 成田長親、松平忠吉
居城とした藩 忍藩
遺構 土塁、堀、移築門
所在地 埼玉県行田市本丸17-23
特記事項 日本100名城118番
和田竜「のぼうの城」の舞台

 公式ページ   行田市/忍城(おしじょう)とは

 

何よりも「のぼうの城」で有名ですよね。南北を川で囲われているために石田光成軍に水攻めにされることになりました。とにかく天然の要害だったわけです。江戸時代入って家康の4男・松平忠吉が入封し忍藩庁となりました。

26位 高知城


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 〈基本データ〉

名称(別名) 高知城(鷹城)
築城年 1601年(慶長6年)
築城者 山内一豊
主な城主 山内氏
居城とした藩 土佐藩
遺構 天守、本丸御殿、多聞櫓、門多数、石垣
所在地 高知県高知市丸の内1-2-1
特記事項 日本100名城84番

 公式ページ   高知城 - 高知市公式ホームページ

 

天守に付属している本丸御殿が現存しているのはとても貴重なので一度は訪れるべきお城です。もちろん当方も行きましたが、とても興奮しました。ほんとに古式ゆかしいって感じです。ともかくこのお城は掛川から移封された山内一豊が築城しました。そのため1727年に焼失した天守の再建をしたときに築城当時のままになっているのは山内家を盛り立てた一豊への想いがあるからだと言われています。本当にいいお城ですからぜひ行ってみてください。ちなみに写真撮影にぴったりの見た目をしていますし、撮影スポットもたくさんあるのでぜひぜひ撮ってみてください!

 

今回はお城総選挙で見事選ばれた30位から26位のお城について紹介しました。個人的にはもっと上位だろうと思ったお城もあったのでこのブログでは当方のおすすめをどんどん紹介していくつもりです。次回以降乞うご期待!

 

なお100pv/月を超えた記念にTwitterのアカウントを開設しました。使い方とかは全然分かっていないのでご容赦を。今後もよろしくお願いします。

市の職員さんに聞いた!仁徳天皇陵の調査について解説

どうも未来の日本史博士です。

先日仁徳天皇陵を訪れまして、ボランティアの方、堺市文化財課の職員さんに話を聞いてきました。と言う訳で、今回は仁徳天皇陵について、そして宮内庁との共同調査の内容についてさらに詳しく掘り下げていきます。

いきなり詳しく解説していくのでとりあえずざっくりと説明した記事を読んでからどうぞ。

gonikyuroku.hatenablog.com

 

 

仁徳天皇陵の概要

百舌鳥古墳群の1つ。全国で最も大きな古墳です。面積は濠を含めて約47万平方メートル(甲子園球場12個分)、一日2000人のべ680万人が働いても15年は軽く超えます。正式名称は百舌鳥耳原中陵(もずみみはらのなかのみささぎ)です。明治時代の発掘調査から埋葬されている石棺の形は亀の甲羅のような形をしているそう。石棺の蓋は幅約1.5メートル、長さ約2.5メートル、高さ約1.5メートルほどと推測されています。石棺を覆う石室について、長さは東西に約4メートル、南北に約2.5メートルで、20〜30センチメートルの丸石(自然石)を積んで作られていて、大石3枚でおおわれていたようです。また、石室と石棺よ間から甲冑、ガラスの杯、太刀の金具、鉄刀20本ほどが出土し、堤(濠の外側の部分)から出土埴輪や須恵器から5世紀中頃の築造と考えられています。

仁徳天皇陵アクセス

所在地 大阪府堺市堺区大仙町7

最寄り駅 JR三国ヶ丘駅(駅から徒歩約10分ほどで現地)

もちろん年中無休です。

仁徳天皇陵の写真

正面の拝所

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すぐ横に宮内庁の管理所がありました。
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横から見た仁徳陵f:id:gonikyuroku:20190327143138j:image

堺市役所21階の展望台からみた仁徳陵

(写真中央)
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展望階にあった空撮写真

(写真右上)
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明治時代の発掘

一度明治時代に堀が崩れたらしくその時に立ち入りがあったそうなんです。その時に甲冑が出土したそうで、仁徳陵の隣にある博物館でレプリカを見ることができます。現物はというと発掘された後、絵に写してそのまま埋めたのだとか。盗掘されていなければまだ眠っているそうです。ちなみに発掘場所はここ。米・ボストン美術館にも仁徳陵から出土したといわれている銅鏡などが保存されているそうです。

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宮内庁堺市の共同調査

では本題にいきましょう。

まずは調査された地点です。

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3つの地点で調査を行ったそうです。堺市が主催した講演会で使用した資料を入手できたのでそちらから引用して解説していきます。

第一堤の3箇所(以下記載)にトレンチを設定して人力で掘削しました。

1トレンチ 幅2m×長さ28m

2トレンチ 幅2m×長さ31m

3トレンチ 幅2m×長さ28m

 

いずれのトレンチからも、現在の地表面の約0.2〜0.4m下において、第一堤上に並べられた埴輪列が第二濠際にて確認した。その一方、第一濠際では埴輪列が確認できなかった。(堺市「海を渡った交流の証し」配布資料)

つまり、埴輪は第一堤の外側にしかなかったということです。(以下参照)f:id:gonikyuroku:20190330095340j:image(イメージ)

何故、内側にはなかったのでしょう?先程の資料ではこのように考察しています。

このことについて、現段階では以下の3通りが推測される。

①築造当初から埴輪列が存在しなかった。

②波浪の浸食などにより堤が崩落した際に埴輪列も失われた。

③並べられた埴輪の間隔が広く、今回設定したトレンチの幅では埴輪列が確認できなかった。(同上)

識者の方ではこのように考察したそうですね。今後の調査に期待しましょう。

もう一つ仁徳天皇陵に石が敷かれていたという点についてお話しします。普通、古墳の斜面部分に崩落を防ぐ目的で石を半ば埋め込む形で敷きますが、今回の調査で堤の表面にも石が敷かれていたことがわかりました。より豪華に見えるように作ったんでしょうね。ちなみに石敷きと同一面に埴輪列があるので築造当初の遺構と考えられています。

 

堺市の職員さん、ボランティアのガイドさんに今後の調査について話を聞いたところ、宮内庁次第との返答が返ってきました。ただ、疑問点がさらに浮かび上がった以上再び実施する可能性は高いということです。これからの動向に目が話せませんね!

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史上初!2回即位した天皇

どうも未来の日本史博士です。

今回は前回の続きで、前回の予告通りに大化の改新の時の天皇の動向を把握していこうと思います。ではではいきましょう。一応前回のリンク貼っておきます。

gonikyuroku.hatenablog.com

 

皇極天皇

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引用:wikipedia

誰とは言わないでくださいね。前回出自は紹介していますから。さあ、詳しく紹介していきます。皇極が即位して以後蘇我蝦夷、入鹿が実権を握り専横の限りを尽くしていました。そこで危険を感じた中大兄、そして鎌足乙巳の変を起こします。その後、皇極は中大兄に皇位を譲ろうとしたんですが、中大兄は時期尚早として断りました。そこで皇極の弟・軽皇子孝徳天皇として即位します。

孝徳天皇

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引用:歴代天皇.com

皇極の治世の時と同様、中大兄を皇太子として、内臣を鎌足左大臣を安倍内麻呂、右大臣を蘇我石川麻呂に任命して新政権をスタートさせました。

ん?何で蘇我の名前があるのかって?未だ謎です。石川麻呂についてはちょっと詳しく語ります。石川麻呂は入鹿のいとこですが、大化の改新の時から中大兄側について乙巳の変のときは皇極の御前で朝鮮からの使者の手紙を読み上げる担当でしたが、緊張して声が震えていたところを入鹿に咎められ、「帝の御前ですから」と言い訳をしたんですがもはやピンチ!そこで中大兄がとどめを刺しました。

どこまで真実かはわかりませんが…その後は右大臣に任命されましたが、弟・日向が反逆の意思があると孝徳に讒言し、石川麻呂に使者を送りますが「帝の御前で話す」の一点張り。結果、孝徳は石川麻呂の屋敷の周りに兵を送り、自害しました。この一件は中大兄と鎌足の陰謀と言われています。まだまだ話は続くんですがこのブログでは天皇家をメインに紹介していくつもりなので今回はこれ以上は省略。

 

とりあえず孝徳の話に戻します。結論からいうと、中大兄皇子と孝徳は仲が悪かったそうなのです。平成のバンドグループとかでもよくある「方針の違い」ってやつですね。そもそも政治の実権は中大兄が握っていたんです。なので都を難波から大和への移転を奏上したとき孝徳は拒否したものの、皇極や公卿ら官人らが飛鳥の都に移りました。孝徳は他ただ一人難波に残され、失意のなかで崩御しました。

斉明天皇

重祚(ちょうそ)って知っていますか?天皇の位を一度降りた人物が再び天皇として即位することです。なぜそのような話をしたのかといいますと、最初に重祚した天皇が斉明だからです。要するに皇極と斉明は同一人物なんですよ。孝徳の崩御後、再び即位して斉明となり中大兄の改革を見守りました

今回はここまで。次回もお楽しみに!

 

 

 

大化の改新とは何ぞや?を解説

どうも未来の日本史博士です。

今回は古代史の中でも特に有名な大化の改新についてです。もちろん聖徳太子だけでなくこっちも知っていますよね。とりあえず推古天皇の後からいきましょう。

舒明天皇

聖徳太子薨去したのち推古天皇は皇太子を立てず後継者争いが起こります。蘇我馬子の子である蝦夷は田村皇子を推し、馬子の弟である境部摩理勢は太子の子である山背大兄王を推し紛議になり、事件が起こります。蝦夷が摩理勢を襲ったのです。摩理勢は亡くなり、田村皇子が舒明天皇として即位します。そこでさらに関係が悪化した大兄王を襲撃、死に追いやり、敵の消えた蘇我氏は専横の度を深めていきます。


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山背大兄王(引用:wikipedia

 

導入

舒明の死後、皇后の皇極天皇が即位します。ここで息子である中大兄皇子の登場となります。この人物もまた有名ですね。蘇我蝦夷とその息子入鹿が実権を握り、専横の限りを尽くしていました。その状況に危惧を抱いた中大兄皇子のところに中臣鎌足が蹴鞠の場で靴を拾って出会った…なんていう逸話もありますが、とにかく出会ったんです。そして大化の改新へと話が進んでいきます。ではいきましょう!

乙巳の変

一般的に言われる大化の改新のことですね。蘇我馬子中大兄皇子らに殺された事件ですね。そのあたり一連の流れをおさえていきましょう。時系列順にいきます。

蘇我氏の専横

蘇我蝦夷は甘樫丘に建てた邸宅を天皇の住居を「宮門(みかど)」と呼ばせたり、息子の入鹿に勝手に大臣の位を与えたり、天皇を無視するような振る舞いをしていました。

法興寺西側広場での蹴鞠

中大兄皇子法興寺で蹴鞠をしていた時、たまたま皇子の靴が脱げたのです。そこで靴を拾った中臣鎌足が差し出し、鎌足と皇子は意気投合して蘇我氏打倒を決意しました。

物部氏と同調して仏教排斥を唱えて蘇我氏と対立していたので相容れない立場だったのです。
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乙巳の変当日

乙巳の変の実行は645年朝鮮半島からの使者を招き入れる「三国の調」という儀式のときに決定、場所は皇居・大極殿です。綿密に計画を立てたとはいえ、やはり当時の権力者を暗殺しようとすると怖気つくのは当然のこと。暗殺役の家臣二人は手が出せずたとえ丸腰の入鹿といえども殺すことができず(鎌足が用心深い入鹿から護身用の刀を奪うために道化を使って刀を取り上げるという手段に出ていたのです。)、中大兄が飛び出して、刹那のうちに首を刎ねて殺害しました。その後、それを知った蝦夷は自分の屋敷に火をつけて自殺して、蘇我派の勝利に終わりました。
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大化の改新

ここからが本当の大化の改新です。

皇極、幸徳天皇のもと皇太子として、唐を模範とした新しい政策を打ち出します。順番に解説していきます。乙巳の変の翌年(つまりは646年)に「改新の詔」を発布します。その中の「公地公民制」「班田収授法」国内全ての土地と人民は天皇のものであるとして、豪族の力を削ぎ朝廷(天皇)の臣下であることを改めて規定した一種の革命でした。ここで鎌足は内臣として中大兄を補佐していました。日本書紀の中では単なる側近ではなく、「隠然たる独裁者」とも書かれています。それくらい中大兄の補佐として積極的に活動していたわけで、名実ともに鎌足は中大兄のナンバー2だったのです。大化の改新のときは中大兄と皇極、孝徳の間でいろいろあったので、まあ大化の改新天皇の関しては次回の記事でじっくり語るつもりです。

次回以降も乞うご期待!

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