未来の日本史博士の時典

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藤原一族の野望#1 橘家の打倒

どうも未来の日本史博士です。

今回からは藤原一族に焦点を当てつつ、天皇の歴史について解説していきます。

という訳で、今回は第一弾として橘一族との攻防について解説します。では早速始めます。

 

 

この時代の権力者

天皇 仁明 833~850
権力者 藤原良房 檀林皇后 橘逸勢 ――――

仁明天皇の陰謀

前回解説した淳和天皇は前々回紹介した嵯峨天皇の皇子を皇太子として、仁明天皇として即位しました。すると仁明は淳和の息子・恒貞親王ではなく、自分の息子を皇太子にしようと画策し始めたのです。そして嵯峨、淳和がともに崩御すると、藤原氏が動き始めます。やっぱり他の家は邪魔なんでしょうねー。しかも今回の陰謀には天皇自身が関わっていたとも言われています。

この時藤原氏の棟梁は藤原良房です。中臣鎌足からの血統は以下の通りですね。

鎌足不比等ー房前ー冬嗣ー良房

藤原氏については別記事でとても詳しく語るつもりです。さあ話を戻しましょう。

良房は嵯峨天皇の皇后・檀林皇后(橘嘉智子)と嵯峨天皇の信頼を得て、台頭していきました。でも嵯峨、そしてその一代後の淳和が崩御すると事態が急変するのです。果たして何が起こったのか?要はお家騒動ですね。よくあるんですよね。父が死んで子が争う…的な感じです。

藤原良房の敵になるのは主に橘逸勢です。で、逸勢は恒貞親王を次の天皇に推薦します。でも良房の妹・順子と仁明との子供である道康親王がいました。じゃあ良房からすれば道康を推挙しますよね。しかも仁明も自分の子である道康を皇太子にしたかったため嘘か真か良房に加担していたとか…。 

承和の変

では良房の陰謀について解説していきましょう。

勝者 敗者
藤原良房
仁明天皇
橘逸勢 
伴健岑

実際こんな感じになるんですが、出来事を順を追って説明していきます。

皇太子擁立争いが淳和、嵯峨に止められていたのに、両名が崩御すると誰も止められなくなります。橘逸勢が自らの推す恒貞親王の身が危ないと案じて東国に移送する計画を発案。でも平城の息子・阿保親王に相談したところ阿保が檀林皇后に密告してしまいます。それを知った良房は逸勢、健岑とその一味を逮捕します。(この時恒貞親王に罪はないとして無罪でした)しかし、やっぱり良房側にしてみれば恒貞親王は邪魔者です。そこで責任を負わせる形で恒貞親王皇位を廃します

まとめ

良房のメリットは何だったのか?

それは周りに権力者がいなくなったことです。伴氏、橘氏を弱体化させ、他の藤原一族の者も同時に失脚させたため誰もいなくなりました。これを機に藤原氏の一家独裁が始まっていくのです。

 

次回以降も乞うご期待!

天皇も散骨?!淳和天皇の生涯

どうも未来の日本史博士です。

しばらく日を空けましたが、引き続き天皇の歴史について解説していきます。

さて、今回の話題は淳和天皇、そして彼自身が歴代で唯一散骨したという点です。とりあえず、軽く天皇の葬儀についてです。

 

天皇の葬儀

何を隠そう日本には古墳があります。まもなく世界遺産になるかどうかが決まりますが、それはさておき…天皇崩御すると土葬されていたんですよね。持統天皇の頃から火葬に移り変わったんです。そして今では天皇の葬儀のことを大喪の礼と呼んでいます。どちらにせよ、膨大な費用がかかりますよね。ということを踏まえた上で淳和についてです。

淳和天皇

平城、嵯峨と同じく桓武の息子です。薬子の変のいざこざの中で高丘親王が廃位させられたので代わって立太子、即位しました。でも立太子に乗り気ではなく嵯峨の懇願でようやく立太子したとか。では軽く淳和の事績について解説していきます。そもそも民思いだったのか、ただの倹約志向だったのか、大嘗祭も簡略したようです。そして皇室財産を盤石なものにするために勅使田を設けました。公地公民なのにね。そして後世の研究者からすれば最もありがたい点である「令義解」の作成です。その他「日本後紀」や「経国集」も作成を命じているのですが、今回は「令義解」について解説していきます。そもそも「令義解」とは公式法令解釈書のことです。何より現代でこの書物が役に立つ理由は今はもう失われた大宝律令」や「養老律令」の解説が書いてあるので現物がどのようなものだったかが分かるのです。これで研究が進歩するんですよね。

そして淳和が崩御するときにも大嘗祭の一件と同じく民のことを思ってか散骨するっいぇ言いだしたんですよ。という訳で京都の西院に散骨されましたとさ。

次回、承和の変から文徳天皇についてのお話です。

上皇って存在して大丈夫なの?薬子の変から考察

どうも未来の日本史博士です。

今回は前回の薬子の変の解説からちょっと脱線して、上皇の存在について考えてみようと思います。

 

薬子の変の原因

なぜ薬子の変が起こってしまったのか?それは平城上皇嵯峨天皇が二重政治を敷いたからなんです。二所朝廷という言い方をする人もいますが、実際嵯峨の施政下で平城が大権を発動したからです。そりゃ国民もどちらに従ったらいいのか迷いますよね。でもね。朝廷が誤解していただけなんですよ。院政が敷かれていた時期ではないので上皇というよりも太上天皇、つまりただの隠居した天皇なんですね。なので政治権力も皆無で、官人が上皇天皇に分かれて政治を行っていたってだけです。また、平城が詔勅を出そうとしたら嵯峨の許可(つまり御璽)が絶対必要だったわけなので直接的に国家に命令できる立場にはなかったんですよね。逆に孝謙上皇はいち早く御璽を入手して国政を動かしました。

現在の世の中で上皇天皇の二重権力状態はありうる?

まあないでしょうね。そもそも平成の天皇陛下(今の上皇陛下)はとても人格が素晴らしい方ですから。だいたい運転免許証を持ち合わせていないと理由でわざわざ車から降りてちゃんと取りに帰られるですよ。ここまで法に厳格な方が絶対に権力の濫用なんてしませんよ。新天皇陛下も国家のトップ(象徴としての)たるにふさわしい方なので二重権力状態にはならないでしょう。仮にそんなことになろうものなら宮内庁か内閣が水面下で全力でとめるはずですからね。安心して令和の御代の安寧を祈りましょう。

ゆえに平成の天皇陛下上皇として存在しても全く悪いことなどありません!

都をめぐって兄弟げんか!?薬子の変

どうも未来の日本史博士です。

今回は桓武の次の平城天皇嵯峨天皇についてです。

さっさと始めちゃいましょう。

 

平城天皇の功

長岡京の一件で早良親王が廃位されたのはそもそも安殿皇子という人物が生まれたからです。そのあたりの話はこちらから。

gonikyuroku.hatenablog.com

その後その安殿皇子は平城天皇として即位しました。で、何をしたのか。これがまたすごいことで桓武が行った蝦夷の討伐、平安京の造営で逼迫した財政をものの見事に再建しました。理由は後述。

具体的には宮中儀式の簡略化、停止や、下級官人の待遇の見直しなどです。

桓武と平城の確執

妃としてとある娘を迎えました。なのに平城は娘の母である薬子を寵愛しました。そして薬子をひいきすると桓武は激怒。そりゃそうですよね。妃の娘はどうした!?ってキレますよね?だから平城は即位した後、桓武の政治を刷新して財政再建に努めたのでした。

平城の譲位

桓武崩御した後に薬子をまた側に置き、薬子の兄・藤原仲成と共に専横を極めました。薬子の夫の藤原縄主は従三位に昇進させて、太宰師として左遷しました。ちなみに即位後に即位礼を催したのは平城が最初です。でも病弱だったので弟の神野親王に譲位しました。

嵯峨天皇の即位と平城上皇の対立

上皇というだけでいろいろ話題が出てきますよね~。ともかく本題に戻りましょう。

譲位されて嵯峨天皇が即位しました。これは桓武の意向で嵯峨(神野親王)が皇太弟になり、そこから即位したんです。あれっ?皇太弟?今の秋篠宮文仁親王殿下の立場じゃないか!やっぱり126代も続くと先例もあるんだな~って改めて感じさせられます。ついでに言っておくと直近の皇太弟は霊元天皇あたりですね。たぶん。あ、話がそれましたね。

で、嵯峨が即位すると薬子と仲成が黙っていませんね。平城上皇に復位するように画策するようになりました。嵯峨は平城が作った官僚制度(前述)を潰そうとしていたので、それが気に食わなかったようです。

さあここで平城が動きます。孝謙淳仁の対立から上皇の政治権力が増大だという考えができていたようで、(下記参照)

gonikyuroku.hatenablog.com

平城京遷都令を出して朝廷を動かそうとしました。最初は従ったものの、嵯峨は拒否を決意。嵯峨は関所を封鎖して仲成を左遷、薬子の官位を剥奪。この行動を知った平城は挙兵。即刻鎮圧した後仲成を射殺しました。その後350年ほど死刑は行われていません。その後守りを固められたことを知って薬子は服毒自殺、平城は出家しました。この一連の流れを薬子の変といいます。このとき鎮圧に関与したのが坂上田村麻呂です。最強の武将ですね~。

弘仁文化

薬子の変のあとは政局が安定。皇室の儀礼や、律令の改革を行いました。

また華やかな弘仁文化も開化しました。漢詩、中国史を学ぶ学問が発展し、書道も発展しました。嵯峨、空海橘逸勢の三人は三筆と呼ばれるほど秀でていました。

次回は嵯峨の次、淳和天皇についてです。

1000年の都 平安京とは何ぞや?について解説

どうも未来の日本史博士です。

前回は長岡京の話をしました。全然関係ないですが令和に変わりましたね。どうぞこれからもよろしくお願いします。

ではでは早速はじめましょう。

 

平安京の成立

前回長岡京について語りましたが、今回は平安京の成り立ちです。どうやって場所を決めたかです。現在もインテリアで配置を決めるときに使う風水ですね。風水を使ったんです。という訳でそのあたりを解説します。安倍晴明とかで有名な陰陽道も風水の一つです。特に四神相応という思想が深く関わっています。 

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(引用:今日もart&science)

とりあえずこのイラストでみてください。とても分かりやすいイラストを描く方がいらっしゃるんですね~。尊敬します!

本題に戻りまして、北に玄武、南に朱雀、西に白虎、東に青龍を配置して怨霊から都を守ろうと考えたんでしょうね。

で、しかも青龍に対応している鴨川は淀川につながっていて茅渟の海(現在の大阪湾)に至るので水運から見ても最高の立地だったわけです。

ちなみに平安京造営使に選ばれたのはあの有名な征夷大将軍坂上田村麻呂です。清水寺を造営したのもこの方です。

平安京造営


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平安神宮;げんざい現在は跡地に平安神宮が建っています。)

まずは平安宮から作ったそうです。大極殿を建てたり、朝堂院を建てたり…。その後朱雀大路を整備してどんどん造営したようです。桓武平城京にはびこっていた仏教勢力の排除も目的としていたので朝廷から認められていた東寺、西寺を除いて新たな寺院の造営を認めなかったようです。

造営の後

桓武崩御の後、平城京に戻ろうとする運動の薬子の変が起きました。そのことについては次回の記事で。

また敷地が広すぎるが故に家宅の造営があまり進まず、しかも右京は桂川の湿地帯があったので平安京が政治の中心から離れたころは農地になっているところもあったようです。980(天元3)年に羅城門(朱雀大路の南端)が崩壊して以降再建されることはなく、平安京が実質左京の北部に偏っていましたなので戦国時代で洛中といえばそこを指します。さらに後は聚楽第伏見城、二条城などの建造物が建てられ、平安宮(中心部)の政治機能はほぼ皆無でした。まあ詳しいことはいつか解説することにします。

次回以降も乞うご期待!

どうして長岡京は捨てられたの??謎の遷都事情に迫る

どうも未来の日本史博士です。

今回はその後1000年ほど天皇の拠点となる平安京の一歩手前、長岡京についてです。とにかく早速始めましょう。

 

光仁天皇

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称徳が崩御して天智の孫の白壁王が即位しました。聖武の皇女の井上内親王(つまり称徳は姉妹)と結婚しました。なんと即位したのは62歳の時。70歳を過ぎても元気に活動していたようです。ここで問題なのは井上内親王とその息子・他戸親王光仁を呪い殺そうとして、逆に抹殺しました。

桓武天皇の即位

他戸親王はもともと皇太子で、前述の事件の後、代わって山部親王が皇太子になりました。ちなみに母は渡来系の人物です。781年光仁から譲位されて桓武天皇として即位しました。

桓武天皇の治世

有名なのは長岡京平安京の遷都、蝦夷征伐とかですね。順番に解説していきましょう。そもそもどうして遷都を試みたのか、ですよね。まあ簡単です。橘奈良麻呂恵美押勝の乱道鏡の陰謀そして口分田の荒廃…。しかも仏教勢力の増大。荒れ果てた都では誰も仕えようと思いませんよね。そんなわけで長岡京に遷都することを決意したんです。

長岡京遷都の失敗


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長岡京桂川宇治川、木津川の三川合流地点(つまり淀川につながる地点)にあります。当方が伏見に自転車で行ったときに三川合流地点で写真を撮ったので地理的なことは参考にしてください。で、話を戻して長岡京の話ですが、平城京のデメリットであった水運を河川の側に都を建造したために解決できました。もちろん上下水についても万事解決です。でもしかしここで問題が発生したんですよね。指揮官だった藤原種継が何者かに暗殺されたんです。その犯人は早良親王だと桓武は断定して、淡路へ配流しました。さてここで問題!このあと何が起こると思いますか?

答えは簡単。呪いですね。そもそも桓武は弟である早良親王を皇太子としていたんですが、子供が生まれちゃったんですよね。じゃあどうしたのか。早良に罪を擦り付けたんです。早良は認めず、絶食して護送中に亡くなりました。そして天変地異がたくさん起こると桓武はたたりを恐れて長岡京から撤退することを決めました。長岡京はおよそ10年間だけ使用されました。

平安京への遷都

まあ右往左往しつつも平安京遷都が決まったわけですが、さてどこを拠点にするのか?これはとても大事な問題ですよねー。現在もインテリアとかを考えるときに風水を使う人はいるじゃないですか。それです。風水を使って都の場所を決めたんです。という訳で長岡京よりももう少し北の地に決まりました。平安京についてはもっと詳しく次の記事で紹介します。

天皇が洗脳された!?道鏡の陰謀とは何ぞや?について解説

どうも未来の日本史博士です。

本当に洗脳されたかは別にしてなかなか混乱した時代でした。とにかく解説していきます。

 

淳仁天皇恵美押勝

淳仁天皇藤原仲麻呂の推薦によって皇太子に任命され、孝謙の譲位の後に即位します。最初はそれなりに政治がまとまっていたんですが、孝謙道鏡を寵愛するようになると仲麻呂の進言によって淳仁孝謙上皇を諫めることが多々あったんですが、孝謙は激怒し、仲がとてもとても悪くなります仲麻呂淳仁から恵美押勝という名前をもらい、孝謙道鏡への寵愛もさらに深くなり、両陣営の溝はさらに深くなりました。ついに仲麻呂は反乱を起こすも淳仁は参加せず敗北(恵美押勝の乱。そして繋がりの深かった淳仁も淡路に流されます。翌年(765年)、脱出を図るも失敗してその翌日に病死します。絶対おかしいですよね。まあおそらく暗殺でしょうね~。ちなみに流罪となった天皇が次に現れるのは崇徳天皇です。まだまだ待ってもらう必要がありますね。この後明治まで淳仁は「淡路廃帝」と呼ばれていました。悲劇の人生ですね。

孝謙天皇 再び即位

淳仁が退位させられた後、重祚天皇が再び即位すること)して孝謙称徳天皇となります淳仁治世下で孝謙は出家していたので、史上唯一出家したまま即位した天皇となりました。問題はここからです。称徳は道鏡をこよなく愛していたのでなんと太政大臣禅師に任命して、しかも僧侶を公的儀式に参加させたりとやりたい放題やってたようです。766年、しまいには道鏡を法王として二頭政治を確立させました。そして神社や仏閣の保護、神仏習合を推し進めました。後程天皇となる光仁天皇は酒に溺れたふりをして難を逃れました。難とは何か?それは刑罰の強化です。粛清が多く、冤罪も多数生まれたようです。

宇佐八幡宮神託事件

物議を醸した話題の事件です。769年に宇佐八幡宮から道鏡皇位を継ぐよう勧める神託の報告があり、和気清麻呂が確かめにいくと神託が虚偽であることが判明道鏡天皇にすることを阻止することには成功しました。まあ公家の総意ですけどね。これを聞いた称徳はかんかんに怒って清麻呂別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させ左遷孝謙(称徳)は敵対する人物に蔑んだ名前をつける人物だったようです。

道鏡のその後

結論は簡単。称徳が崩御しました。そして道鏡の権勢は衰え、左遷されました。下野の薬師寺です。天皇制が根本から揺れた事件なのでとても有名です。たとえ称徳が道鏡天皇にしようと暗躍しようとも周りの貴族は認めませんでした。これは天皇万世一系であると認められていた証明なんですねー。

次回はようやく平安時代に突入します。

乞うご期待!

 

史上唯一の女性皇太子!?孝謙天皇

どうも未来の日本史博士です。

という訳で今回はそのあたりを解説していこうと思います。

史上唯一の女性皇太子

聖武天皇には皇子がいたんですが、夭逝。そのために藤原氏の後ろ盾を得て女性皇太子と擁立されたのが、聖武光明皇后の娘の阿倍内親王です。父・聖武の影響を受けたのか仏教への信仰心が厚く、東大寺の大仏(盧遮那仏)の開眼供養を行ったのは孝謙の時です。ただあくまで女性の天皇だったので政治の実権は光明皇太后とその甥である藤原仲麻呂が握っていました。そうすると藤原氏が台頭することに危機感を抱く人物って絶対いますよね。今回は橘家です。

橘奈良麻呂の乱

結論から言うと未遂に終わっています。果たしてどんな乱だったのか解説していきます。そもそもこの計画は聖武が難波に遷都したあたりから始まったようです。とにもかくにも水面下でメンバーを集めて機会をうかがっていたようなんですが、孝謙が即位して藤原仲麻呂が台頭すると不満がたまり、密会を何度も開き同志集めに奔走していた間に謀反の計画が漏れて捕らえられてしまいます。拷問の末に複数のメンバーから情報を得たので計画の全容を紹介しておきます。

そもそも東大寺大仏の建造で人民が苦しんでいるのを救うために皇太子(ここでは後の淳仁天皇、後述)を廃して玉璽を奪って天武の孫の塩焼王らの中から新天皇を即位させることが最終目標だったといいます。

結局、孝謙は本来は死罪にするべきところを流罪に処するという詔を出したんですが、仲麻呂がそれを許さなかったようで、徹底的に拷問し、関与した人物たちを獄死に追い込みました。奈良麻呂が獄死したということは書かれていません。

この時代に書かれた国書に「続日本紀」があるんですがこれが編纂された時代に奈良麻呂の孫娘の橘嘉智子嵯峨天皇の皇后だったので記録から消されたと考えられています。まあ疑問点は多々ありますが…

全然関係ないことですが、藤原仲麻呂も後に乱を起こすんですが、その時に失った正一位太政大臣の位が、嘉智子が仁明天皇を生んだことから名誉復活として政敵である奈良麻呂に授けられています。皮肉なこともあるもんですね~。

次回、仲麻呂道鏡についてです。

聖武天皇は何がしたかったのか?について考察

どうも未来の日本史博士です。

今回は聖武天皇の謎の遷都の考察と、聖武の治世下の天平文化についてです。この記事を読む方はぜひ前回の記事を読んでからこちらに舞い戻ってください。以下リンクからどうぞ。

gonikyuroku.hatenablog.com

聖武天皇の謎の遷都についての考察

あの遷都にどんな意味があったのか。副題をつけるならばこんな感じですね。早速考察していきます。今回当方が挙げる考察は以下の通りです。

①人民の寄付などから大仏を造営する資金を得ようとした場合

②天変地異から逃れようとした場合

聖武が大仏を作る上で邪魔な勢力が平城京に存在していた場合

では順番に考察を述べていきます。

①の場合の前提ですが、豪族たちに資金を出させる方式での造営方式が執られました。しかも国家の事業としてではなく、個人の自発的な寄付、寄進、献身を主体としています。そうするには政治機能の持った平城京は邪魔なんですよね。政教分離ってやつですよ。そこで紫香楽を拠点として、また恭仁を中継基地として造営していく。でも全てがそんな上手くいくはずはなく、想定通り紫香楽造営計画は頓挫。で、平城京で造営するという計画が持ち上がり結局平城京での造営になる、こんな感じの流れです。

②の場合、この当時は藤原四兄弟天然痘で亡くなるくらいに人々にも伝染しています。しかも調べたところ、聖武治世下には734年畿内七道地震、745年天平地震(これを機に難波京から平城京へ帰還)などたくさんの天変地異が発生して、それを避けるために遷都したと思われます。

③の場合の考察。果たして聖武の敵となる人物がいたのでしょうか、ということについて調べてみました。でもやっぱりその時代に作られた書物は天皇の命で作られたものが多いので天皇の政敵なんぞを記していないと思うんですよね。いろいろ読んでみたんですが、やはり見つからないんですよね~。という訳でこの案はちょっと考えにくいですよね。

とかくまぁ、①、②の考察が正しいのかと思われ、これがつまり史実になるってことですね。

今回は遷都について考えました。あの時代はいろいろあったんですね~。まだまだ謎も多いので歴史はとても面白いんです!

次回は聖武天平文化についてです。乞うご期待!

 

猿でも分かる平城京と律令と天皇に関わり

どうも未来の日本史博士です。

今回の内容は藤原京から平城京に移るまでの流れの解説ですね。今回の話題は割とレアケースな運命をたどった天皇を紹介します。

じゃあ早速始めましょう!

 

平城京元明天皇


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前回紹介した文武が25歳で崩御しました。文武の息子には首皇子(おびとのおうじ)が遺児として残されていたんですが、たったの7歳で皇位を継承することができなかったので中継ぎとして文武の母である元明が即位しました。この血統での即位の仕方、つまり前の天皇から母親に継承されたという仕方は元明だけです。

じゃあ彼女の事績を解説しています。この翌年に秩父から和銅が献上されたことを瑞祥とみなして年号を和銅に改めました。そして貨幣を鋳造しました。これが和同開珎です。さらに2年後の710年に藤原京から平城京に遷都しました。さらに2年後、「古事記」が編纂されて元明に献上されました。

 

平城京の概要


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公式サイト  平城宮跡クイックガイド

唐の都・長安を模倣して建造したものです。最初は内裏程度の建造物しかなかったそうなんですが、徐々に増築されていったようです。平安京に遷都した後も平城京に遷都する計画や陰謀を企てた天皇もいました。その件についてはまたいつか紹介します。

敷地の形は平安京のように碁盤の目のように区切られているんですが、右京と左京の他に左京の外に外京がありました。中央の道は朱雀大路という名前で羅城門から平城宮に続いていました。4~5kmほどあったみたいですよ。ちなみに藤原京のなかで藤原宮(要するに政庁の中心である大極殿、朝堂院があった場所)は都の中心にあったんですが、平城宮の場合は平安京同様北の端にあったようです。


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引用:wikipedia
至る所に興福寺東大寺といった寺院が散在し、仏教的な影響を排除しようとして桓武天皇が遷都に踏み切るきっかけとなりました。

元正天皇


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元明首皇子皇位を継承するための中継ぎだったんですが、元明が老衰を理由に譲位を理由に譲位の意向を示した時にはまだ首皇子はまだまだ若かったので文武の姉が皇位を継承し、元正天皇となりました。現象は独身で即位した初の女性天皇で、かつ、歴代で唯一母から娘へ皇位を継承した天皇です。これまた激レアケースですよね。701年に制定された「大宝律令」を改訂して「養老律令」を制定しました。「養老律令」は今までの律令と変わりは無いので歴史的意義はそこまで大きくないんですが、「大宝律令」は現存していないので「養老律令」をもとに推測して研究を進めたそうです。720年には「日本書紀」を完成させました。さらには班田収授法を発展させて3代までの私有を認めた三世一身法を発布して農地の開墾を奨励しました。その後ようやく元正が譲位して首皇子、つまりは聖武天皇が即位して時代が変わり始めるのです。 

次回は聖武天皇について、です!

 

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