〈特集〉即位礼正殿の儀のまとめ
どうも未来の日本史博士です。
10月22日に即位礼正殿の儀が無事に執り行われました!
今回は延期になった祝賀御列の儀直前特集ということでざっくりとタイムテーブル順に流れをおさらいしていきます。
賢所大前の儀まで
10月22日当日の流れについて順を追っていきます。
午前9時03分頃:天皇皇后両陛下が賢所(宮中三殿)にて賢所大前の儀を行いました。
午前7時03分頃に宮中三殿に移動してから始まります。
まずは天皇陛下が「帛御袍(はくのごほう)」をお召しになり、天皇の証である剣爾を持った侍従を従えて賢所の内陣に入り、大和言葉で「御告文」を読まれ、その後、皇霊殿と神殿に順にご報告されました。
その後、皇后陛下が「五衣」「唐衣」「裳」という装束を身を包まれ、天皇陛下同様に宮中三殿にご報告されました。
宮中三殿には皇祖皇孫(天照大御神と歴代天皇)が祀られており、即位したことを報告する儀式を行ってから即位礼正殿の儀に臨まれました。
即位礼正殿の儀
まずは諸外国の来賓の入場、知事や各方面に功績を残した方々が松の間の向かいの特設ステージに入場します。
その後三権の長の入場です。正殿・松の間に入っていきます。
続いて天皇皇后両陛下以外の皇族の入場になります。
秋篠宮文仁親王殿下は「黄丹袍(おうにのほう)」と呼ばれる皇太子のみが着ることができる束帯をお召しになり「垂纓冠(すいえいかん)」「帯剣(たいけん)」を帯びて現れました。
秋篠宮妃紀子内親王殿下以下の女性皇族方は「五衣」「唐衣」「裳」をお召しになり、男性皇族は束帯が原則ですが、今回秋篠宮文仁親王殿下を除いて唯一参列される常陸宮正仁親王殿下は車椅子に乗って生活されているため勲章を着用した燕尾服をお召しになって車椅子で参加されました。
13時05分になると天皇皇后両陛下が松の間にお入りになり、天皇陛下は高御座、皇后陛下は御張台に入られます。
この時、天皇陛下は「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」という天皇陛下のみが着用できる束帯姿でした。皇后陛下は「御五衣(おんいつつきぬ)」「御唐衣(おんからぎぬ)」「御裳(おんも)」という白を基調とした十二単をお召しになっていました。男性皇族は冠を、女性皇族は御垂髪(おすべらかし)という伝統的な髪型で臨まれました。
天皇陛下が高御座に入られる時に剣、御璽、国璽、を侍従に持たせて引き連れ、高御座の中に置かせます。
準備が完了した後に宮内庁職員による鉦の合図で一同が起立、
高御座と御張台を開きます。
続いて鼓の合図によって参列者が敬礼し、内閣総理大臣が松の間に入ります。
侍従が天皇陛下から笏を受け取って天皇陛下が読まれるお言葉が書かれた紙を受け取り、
13時17分に天皇陛下がお言葉を読み上げられました。
ここで天皇陛下のお言葉です。
上皇陛下が三十年以上にわたる御在位の間、常に国民の幸せと世界の平和を願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その御心(みこころ)を御自身のお姿でお示しになってきたことに、改めて深く思いを致し、ここに、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。
国民の叡智(えいち)とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。(引用:読売新聞)
その後再び天皇陛下が笏を受け取られ、安倍総理大臣の寿詞です。
謹んで申し上げます。
天皇陛下におかれましては、本日ここにめでたく「即位礼正殿の儀」を挙行され、即位を内外に宣明されました。一同こぞって心からお慶(よろこ)び申し上げます。
ただいま、天皇陛下から、上皇陛下の歩みに深く思いを致され、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、日本国憲法にのっとり、象徴としての責務を果たされるとのお考えと、我が国が一層発展し、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを願われるお気持ちを伺い、深く感銘を受けるとともに、敬愛の念を今一度新たにいたしました。
私たち国民一同は、天皇陛下を日本国及び日本国民統合の象徴と仰ぎ、心を新たに、平和で、希望に満ちあふれ、誇りある日本の輝かしい未来、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ時代を創り上げていくため、最善の努力を尽くしてまいります。
ここに、令和の代(よ)の平安と天皇陛下の弥栄(いやさか)をお祈り申し上げ、お祝いの言葉といたします。
続いて天皇陛下のご即位を祝って、安倍総理大臣による万歳三唱、
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地所属の第一特科隊の礼砲中隊が甲武装を纏って105mm榴弾砲M2A1から21発が発射されました。
「天皇陛下、万歳」の「て」で合図が行くらしいですね。
あとは始まりの逆です。高御座、御張台の幕が閉じられて、鉦の合図で参列者一同が着席します。
その後、13時35分天皇皇后両陛下、皇族方が退出され、最後に三権の長が退出して即位礼正殿の儀が終わりとなります。
(引用元:全てTHE PAGE)
以上、退場の様子でした!
祝賀御列の儀には僕も行くのでその内容についても特集を組んでいきます。
後白河法皇と源頼朝の駆け引き
どうも未来の日本史博士です。
さて、ついに平家滅亡までこのブログも進みました。となると、次に政権を握ろうと画策したのは源頼朝です。という訳で今回は源頼朝、義経、そして後白河、後鳥羽を中心に話を進めていきます。では早速始めましょう!
義経と頼朝の確執
(源義経)
鵯越の逆落としとか、八艘飛びとか、常人離れした様々な戦法でも有名ですよね!でも義経もやはり人です。褒めてもらいたいし、ご褒美も欲しいんです。でも頼朝は義経を冷たくあしらいました。平家追討の戦いの最中に頼朝の腹心・梶原景時と仲たがいして讒言されたとか、弟を贔屓すると他の家臣に示しがつかないとか、いろいろ理由があったんです。そうはいってもやはり、義経にしてみれば悔しいことこの上ないんです。どれだけ頑張っても功績を認めてもらえなければつらいですよね。
そこで義経は直接後白河院に褒美を求めたのです。すると後白河院はあっさりと検非違使に任命しました。
(検非違使)
さて、何でだと思います?後白河にも彼なりのやり方があったんです。彼自身天皇に即位するまでは政治には何の興味も示さなかったんですが、即位後は如何にして天皇家の勢力を向上させるかを常に考えてきました。藤原氏の力を削ぐことができ、平家も滅び、あとは源氏一族を弱体化させれば全ては上手くいったのです。そのため、義経を検非違使に任命することで頼朝と頼朝に従わない義経の対立関係という構図を作り出したのです。まあここで大誤算が生じるんですけどね。
後白河院がやらかした史上最強の大誤算
果たして、何が誤算だったのか?
それは後白河院が義経に頼朝追討の院宣を出したことに始まります。激怒した頼朝は義経を捕まえるべく守護と地頭の任命権を後白河院に求め、後白河院はそれを承認してしまいます。これによって租税、警察制度は全て頼朝の管理下になりました。簡単に言えば、政治機能を渡してしまったんですね。これが1185年のことです。最近ではこの頃に鎌倉幕府が成立したという見解もありますね。そのまま義経は奥州藤原氏の拠点・平泉に逃げ込み、時の当主であった藤原泰衡の裏切りによって衣川の館で自害します。
(中尊寺金色堂)
無念のヒーローって感じですね。僕が歴史に興味をもったのもこういう出来事がはかないなぁって思うのと同時に、宿命なんだろうか、今の世の中でも同じような状況が生まれるのだろうか、と気になったからなんですよ。
(源頼朝)
それはさておき、頼朝は1189年には奥州藤原氏を滅ぼし、公家の権力者・九条兼実を摂政に任命させて仲介してもらうことによって1192年に征夷大将軍に就任、正式に武家政権が花開き、ここに後白河院の野望は露と消えたのです。
次回、鎌倉幕府と初期の動乱について解説していきます。また番外編として平安末期から鎌倉初期にかけての公家の動向、また、奥州藤原氏についての記事もお送りしたいと思っています。乞うご期待!
空母加賀が発見された!で、加賀ってどんな船?
どうも未来の日本史博士です。
実は僕はミリタリー好きでして、加賀発見のニュースにとても湧いています!
という訳でたくさんの人に加賀について知ってもらうべく、この記事を書きます。
加賀の主要諸元
母港 | 佐世保港 |
建造年/場所 | 1928年3月31日 川崎造船所(艤装のみ横須賀海軍工廠) |
最期 | 1942年6月05日沈没 ミッドウェー |
基準排水量 | 38200t |
速力 | 26.7ノット |
全長 | 238.51m |
乗員 | 1269人 |
艦載機 | 三式艦上戦闘機16機/一〇式艦上偵察機16機/一三式艦上攻撃機28機 |
兵装 | 20cm連装砲4門/20cm単装砲6門/45口径12cm連装高角砲12門/13mm連装機銃4基/留式機銃2挺 |
空母の速さの必要性
この時代、艦載機はどうやって発艦したでしょう?
ちなみに現在は蒸気や電気の力でカタパルトを使って一気に加速することで飛んでいきます。しかし、戦争が始まるころはそんな科学技術はありません。そのため風の向きに合わせて30ノットまで加速することで飛行機が飛べる速度に合わせていました。
そして今回の加賀ですが「ロ号艦本式ボイラー」というものを搭載していました。艦本式というのは艦政本部が開発した国産のボイラーという意味らしいのですが、実は最大戦速でも28ノットしかでないのです。まあ飛行甲板が広くて飛ばしやすいので人気だったようです。
戦艦時代、三段甲板時代
そもそも空母には「飛龍」「瑞鶴」といった空を飛ぶ縁起の良い生物から名前を取っています。ですから「加賀」という名前はイレギュラーなわけです。では、何故か?
ヒントは「陸奥」「山城」「武蔵」「大和」分かりますか?
答えは旧令制国の名前を取っています。という訳で「加賀」という名前の通りもともと戦艦として作られたんです。でもワシントン海軍軍縮会議で主力艦(戦艦)の保有が正弦されてしまったんです。だから抜け道として空母に改装することにしたんです。
で、世界的に珍しい三段式の飛行甲板を備えた空母に生まれ変わりました。
一段式空母時代、太平洋戦争開戦直前まで
三段の場合、意外と効率が悪いらしいんですよ。二段目からは艦載機は飛ばせず、三段にしたせいで艦載機の数も少なかったんです。同時期に巡洋戦艦から改装された「赤城」が「加賀」よりも5ノット程早いため一緒に行動できません。そういった事情を踏まえて性能改善、甲板全通化のため呉海軍工廠にて再改造が行われました。
こうして出来上がった「加賀」は帝国海軍空母のスタンダードモデルとしてこの形が引き継がれています。
「加賀」の初戦は第一次上海事変です。この戦闘自体は引き分けに終わったものの帝国陸海軍史上初めての敵機を撃墜しています。
この後に前述の改造が行われ、第二次上海事変にも参加、太平洋戦争が勃発します。
次回、真珠湾攻撃からミッドウェー海戦まで、そして加賀発見についてです。
空母「加賀」について、10月22日の即位礼正殿の儀、11月10日の祝賀御列の儀についての特集を組むので天皇の歴史シリーズはいったんお預けになります。
ともあれ、それなりの頻度で更新していくので、乞うご期待!
後白河院政下の安徳・後鳥羽施政
どうも未来の日本史博士です。
以前から続く後白河による院政下での安徳天皇と後鳥羽天皇の二帝並立について、そして平家の滅亡まで流れについてです。
それでは、どうぞ~
木曽義仲の興亡
木曽義仲は始め京都に入って平家を京都から追い出すことに成功したので、征東大将軍に任命されました。が、しかし、ここで問題が起こるのです。もともと木曽というだけあって京都に比べると田舎だったわけです。なので作法がなってなかったわけです。しかも前回の記事で解説した通り、京都では食糧不足に陥っていて、義仲軍の兵士は食べ物を欲していました。そしてついに、我慢にも限界がきて乱暴や狼藉を都の一般人に行ってしまいます。入洛直後は不良同然だった平家の武士を追い出した功績から賞賛され、大目に見てもらっていました。でもだんだん都の人々の空気が変わり、後白河の義仲への信頼は失墜します。そして後白河は源頼朝に密かに義仲追討の院宣が下されます。これに怒った義仲は後白河の住む法住寺殿を襲い、公家を多く殺害してしまいます。この時に関白・近衛基通を罷免し、松殿師家を代わりに任命します。
その後義仲は源義経と瀬田唐橋にて争い、敗北。滋賀の粟津で敗死します。
この時、松殿師家は失脚、以降松殿家は政治の表舞台から去ります。
平家滅亡
一時、源氏の中で内紛が起きたことにより、西国から福原に戻っていましたが、かの有名な義経の平家追討が始まります。まずは一の谷。鵯越の逆落としで有名ですね。
そのまま安徳を連れて屋島に逃げ込んだ平家一門でしたが、義経の策略に為す術もなく敗北。
(このシーンは有名な那須与一が扇を撃ち落とすところです)
壇ノ浦に敗走します。まああとは分かりますよね。壇ノ浦の戦いで頭領・平宗盛以下平家一門は入水。安徳も清盛の妻・時子(二位尼)に抱かれて海の底に消えました。たった8歳で崩御するという今なお破られていない天皇の短命記録です。
しかもこの時に三種の神器の一つである草薙剣が海の底に沈んでしまったのです。(実際のところ実物は熱田神宮に祀られているようなんです。御霊遷しという段階を踏んでいた複数のレプリカが存在していて、そのうちの一つを平家が持っていたとか)
同時に八尺瓊勾玉も二位尼が帯同して海に沈んだものの、勾玉が入っていた箱ごと浮いてきたためそのまま回収できたとか。
この頃後鳥羽は後白河の院政下だったため、そして若年だったため、どうすることもできずにただひたすら従っているだけでした。
さて、ついに平家滅亡まで解説しましたが、次回は後白河最終章、源頼朝との確執~崩御について解説していきます。次回以降も乞うご期待!!
後白河の院政と二帝並立
どうも未来の日本史博士です。
さて、日々より多くの方々に天皇の存在の重要性を理解してもらうべく、天皇を主人公として歴史を語っているわけですが、そろそろ有名な人物がごろつき始めたなぁというあたりまで続けてくることができました。先日、ブログを本格的に開始してから半年が過ぎたころに通算2600PVを達成できました。1日のPV数も50を超えてくることが多くなってきたので目指せ100PV/日!という訳で今回も精一杯歴史を語っていきます。
さて、前回は安徳天皇の即位で終わったので今回はその続きからですね。
ここからは急展開ですので瞬き禁止ですよ!
安徳の即位と清盛の死
安徳が即位するまでには長い道のりがあったのは今まで書いてきたのでだいたい理解して頂けていると思いますが、改めて振り返ると上手に世渡りをしていたんですよね~。皇族の護衛をして気に入られ、摂関家や僧にも名誉に傷をつけないように間を取り持ちつつ最大限に権力を利用していたわけです。そして自分の娘・徳子を高倉天皇に入内させることに成功し、ついには誕生した孫の安徳(言仁親王)天皇を即位させることにまで成功したのです。
(安徳天皇)
しかし、安徳即位の直前の「治承三年の政変」から評判が悪くなり始めました。
じゃあ何が悪かったのか?
簡単に言えば横暴ですよね。特に顕著に表れているのが悲願だった安徳の即位です。とにかく院政を敷いて自分の権力を保ちたかった後白河を差し置いて(あろうことか幽閉までして)安徳を即位させてしまったのです。同時に人事も刷新して敵対する公家を排除して公家衆の不満が爆発しました。
さらに安徳即位後の最初の行幸で石清水八幡宮などを差し置き厳島神社にしようとしたことも伝統を重んじる公家の怒りを買いました。
(岩清水八幡宮)
上記の事情は宗教界からも反発も招き、さらに福原(兵庫・神戸)へ遷都を決断したことが皇族、公家はもちろん都の鬼門を守る立場にあった延暦寺からは猛反発です。
(比叡山延暦寺、ちょうど先日NHKのブラタモリで取り上げられてましたね)
ちょうど同じころに後白河の第三皇子の以仁王と源頼政の挙兵によって広がりつつあった反乱の芽を図らずも育てる羽目になってしまったんですね。
さらに平家にとって不幸は重なり、戦乱の中で東大寺、興福寺を焼いてしまうという失態も。
(言わずもがな東大寺)
そしてじわじわと情報が広がり、多くの人に以仁王の挙兵に同調して挙兵します。その中に源頼朝や木曽義仲らがいます。彼らは富士川や俱利伽羅峠で勝利して都に近づいていました。
その中でついに清盛の生命の灯が消えます。後世に伝わる話では体を冷やすために湯舟に入ったものの、それが熱湯になった、という逸話も残るほどの高熱にうなされてついに亡くなりました。
二帝並立
清盛が死去した時はちょうど近畿で干ばつが起こっていて京都に食糧がほとんど入ってこない時期だったんです。多数の兵士を抱える平家は滞在し続けるわけにはいかず、丁度源氏方が攻めてきているのもあって西国に落ち延びていきました。
(後鳥羽天皇)
この時に安徳も平家と一緒に西国に向かったので京都に天皇が不在となったため、高倉天皇の三男・尊成親王が後鳥羽天皇として即位しました。ちなみに三種の神器は平家が所有していたので言わずもがな平家方はこれを認めませんでした。あくまで後白河法皇の詔のみでの即位なので果たしてどれだけ浸透したかは未知数です。
さて、二帝が同時に存在した一時期に関してはまた次回を乞うご期待!
平清盛の勢力拡大と劣勢の後白河上皇
どうも未来の日本史博士です。
前回に引き続き今回も後白河上皇の院政期のお話です。そして平治の乱によって後白河の信頼を得た平清盛についても解説します。ではでは早速始めましょう。
≪今回のキーパーソン≫
院政 | 後白河上皇 | 院政1158年~1192年 |
今回の時代(1159年~1180年)の天皇 | 78代二条天皇 79代六条天皇 80代高倉天皇 81代安徳天皇 |
在位1158年~1165年 在位1165年~1168年 在位1168年~1180年 在位1180年~1185年 |
時の権力者 | 平清盛 近衛基実 松殿基房 |
参議太政大臣 贈正一位摂政関白太政大臣 摂政関白太政大臣 |
天皇の移り変わりと清盛
たとえ天皇の歴史について解説するブログとは言え、突然清盛に登場されても謎が深めるだけだと思うのでこちらで軽く紹介しているので良ければ読んで頂ければ。
さて、清盛は後白河にとても気に入られて参議、内大臣に昇進します。ただ、その間の1165年に二条天皇が崩御し、六条天皇が即位します。
(二条天皇)
(六条天皇)
亡くなるまで後白河と政権を争い、二頭政治を敷くも後白河勢力の地盤が強固になりつつあった最中の出来事でした。ちなみに六条は最年少の0歳7か月で即位しています。まだ赤ちゃんだったため即位式中に泣き出して授乳させたというエピソードがあります。
そのため摂政・藤原(近衛)基実が義父の清盛と共に政治を主導しますが、基実が翌年に亡くなり、後白河の院政が本格的にスタートします。
平清盛の共存共栄策
清盛の昇進は止まらず、1167年に教科書でおなじみの太政大臣に武士として初めて任命されました。また、藤原摂関家に伝わっている教え「天皇と共存共栄」という信念を受け継ぎ、娘の徳子を高倉天皇(1169年に後白河の意向で六条が退位、高倉が即位)に入内させて安徳天皇を産んだことで外戚として完全に政権を掌握しました。
(高倉天皇)
高倉の即位の時に清盛は病を理由に出家しています。自分の院政を盤石にしたい後白河と平氏と繋がりのある清盛の意見が一致した結果の出来事だったのでしょう。ちなみに六条は上皇になった後(この譲位を最年少)に13歳で崩御します。六条の治世は亡くなった二条と基実の遺産の分配くらいだといわれるほど在位は短く、権力は無かったようです。
清盛の専横
はじめは後白河と協調関係にあった清盛も荘園からの税収や日宋貿易による利益で莫大な資金を手にして官位官職を独占した挙句、清盛の専制に移行していきます。後白河も清盛の長男・重盛が亡くなった際に、知行国の越前を没収するといった攻撃に出ますがその甲斐もむなしく、1179年の治承三年の変が起こります。平氏の方針に反抗する勢力を潰し、後白河は幽閉されました。いろいろと評価は分かれますが、後白河と仲良くしていれば政権も長命だったともいわれますね。
さて、翌年の1180年には高倉を譲位させ、安徳天皇が即位します。
(安徳天皇)
高倉は院政に移行させられますが、何もできず翌年21歳で崩御しました。
様々な平氏の行動が災いして皇族、公家、寺社からの反発が強まるんですが、そこからの一連の流れは次回にて。
というわけで今回はここまでにします。次回以降乞うご期待!
番外編 平清盛の半生
どうも未来の日本史博士です。
さて今回は後白河の院政シリーズ第三弾の平清盛の回とリンクする内容で本編を読んでいただければ分かると思いますが、有名とはいえ突然登場しても困惑する読者もいらっしゃると思うのでざっくり語るための番外編です。
平清盛の誕生
平姓なのでまあだいたい想像はつくでしょうが、先祖を辿ると源氏と同じく皇室に繋がるんです。しかも桓武天皇からの子息から流れが来ているので桓武平氏と呼ばれます。
(家系図作成本舗さんから引用してきました)
その一族・平忠盛の長男として生まれ、祖父・正盛や父・忠盛は北面の武士として白河上皇の院政からずーっと仕えていて、そのバックグラウンドが存在する中で跡を継ぎました。
(平忠盛)
後白河からの信頼は厚く、延暦寺の僧兵が清盛の郎党が起こした騒動の責任を取らせるために流罪を要求した際、後白河は全力で守っています。
また安芸守となって瀬戸内海を掌中に収め厳島神社を創建し、信仰します。
保元・平治の乱
保元の乱では後白河天皇、源義朝と協調して勝利を納めました。しかし、義朝と軋轢が広がり、そのまま平治の乱に突入しますが、ちょうど熊野へ行っており、後白河・二条天皇が幽閉されます。しかし大急ぎで京都に戻り、義朝と藤原信頼に協力する風に見せかけて、後白河・二条を奪還し流れを大きく変えました。
結果、大勝に終わり、権勢はさらに広がることになるのです。
その後
ここからは本編にて解説していきますので、そちらでお楽しみください。
後白河の院政と平治の乱
どうも未来の日本史博士です。
しばらく時間が空きましたが、前回に引き続き後白河天皇についてです。ちなみに更新していない無い間に槍ヶ岳縦走していましたので姉妹ブログにてつらつらと書いていきます。
では、早速始めます。
後白河の譲位
そもそも保元の乱以前から藤原信西が実権を握っていました。なぜなら信西は鳥羽天皇の寵臣だったからです。そのため戦後に信西が主導権を握り(この時後白河は傀儡でした)保元の荘園整理令を公布しています。
その後、近衛天皇の母で鳥羽の寵妃として実権を持っていた美福門院得子と信西が話し合って後白河に譲位させて二条天皇が即位しました。
信西と二条側の確執
(二条天皇)
藤原信西の排除を目論んで二条天皇の側近が立ち上がった、これが平治の乱です。もう少ししっかりと解説すると、二条側の公卿たちは親政(天皇直接の政治)を行いたかったのですが、信西が絶大な権力を基盤として後白河院政を推し進めようとして不仲になりました。さらに後白河陣営の中でも信西と権力争いをしていた藤原信頼が台頭してさらにややこしい状況になっていました。そこに源平の争いもあったんですがここでは多くは書きません。
平治の乱
この三つ巴の対立が爆発したのが1159年の平治の乱です。信頼と源義朝(頼朝の父)が組んで平清盛がいない隙を狙って二条天皇、後白河上皇がいる御所に攻め込みました。
そして信西を殺害、二条、後白河を幽閉します。
(信西の首)
が、熊野にいた清盛がすぐさま二条天皇を六波羅に脱出させ、後白河は自力で脱出して反撃に出ました。この時すでに信西が殺害されていたので後白河には無関心で脱出しやすかったようです。これを知った義朝は信頼を「日本第一の不覚人」と罵倒したというエピソードが残っています。それくらい大きな出来事であったのは間違いなく、その後は多くを語るまでもなく二条派と清盛の圧勝で終わりました。
(引用:歴史まとめ.net)
二条派が立場をころころと変えたのでじっくり調べないと分かりにくいんですが、ざっと書くとこんなストーリーですね。
後白河天皇と京都の動乱
どうも未来の日本史博士です。
最近古文書を読めるようになろうと試みて、勉強していて、おかげさまでブログの更新がおろそかになってしまいました。ともあれ、前回後白河が即位したところで終わっているので今回はその続きから始めます。
今様に没頭した遊び人
後白河と聞くと歴史の転換点に在位していたからか、とても賢い人というイメージが強いですが、実際そうではなく「今様」という流行歌にハマって政治への関心などなかったようです。だからその即位の時に鳥羽上皇から「即位の器にあらず」と罵倒されていました。
では何で即位することになったのか?決定権は鳥羽上皇にあったのに…。ここには伝統という縛りがあったのです。鳥羽の子である75代崇徳、76代近衛と皇位が移り、近衛が崩御した後、同じく鳥羽の子である雅仁親王(後白河)の子・守仁親王を後継者にしようとしましたが、今まで父を差し置いてその皇子が即位した前例が無かったので仕方なく雅仁が後白河として即位しました。実際保元の乱の3年後に守仁を二条天皇として即位させています。
ちなみに承久の乱の後鎌倉幕府が、江戸後期に徳川幕府が先例を破って父を差し置いて皇子を即位させています。まあその件に関しては時期がくれば解説します。
保元の乱
さて、長々と前置きをしましたが、後白河の治世について。今回のメインは保元の乱ですが、何故勃発したのか?という点について解説しましょう。そもそも後白河の2代前の崇徳は近衛の崩御の後、したたかに治天の君のポジションを狙っていました。なのに鳥羽上皇は後白河を即位させました。そしてその後すぐ、鳥羽が崩御したので崇徳と後白河の不仲は決定的なものとなりました。
1156年7月5日(鳥羽の崩御から3日後)後白河は関白・藤原忠通と結託して崇徳を「謀反人」として没落させます。対する崇徳も忠通の弟・頼長の味方に引き入れ対抗します。そこに源平の争いが混ざって保元の乱が勃発します。
その後は知っての通り、7月11日未明に崇徳が籠城していた白河殿が放火され決着。後白河陣営の圧勝に終わりました。まあ崇徳は讃岐に流されて皇室を呪いました。
鳥羽上皇と院政の確立期
どうも未来の日本史博士です。
今回は前回に引き続き白河上皇の院政について、そして鳥羽天皇について解説します。前回の記事の最後の方に鳥羽天皇と白河上皇の豹変について書きましたが、その辺りからじっくり語っていこうと思います。
さて前回の記事はこちらから。
では早速始めましょう!
鳥羽天皇の即位
(鳥羽天皇)
突如崩御した堀河天皇に代わって74代の鳥羽天皇が即位しました。でも即位している間は全ての実権を白河上皇に握られていました。人事権を乗っ取り、院近臣や北面の武士と呼ばれる人々を自分の周りにつけて専制政治を行った白河を前にして若年の鳥羽は為す術もなく、院政が本格化していきます。堀河治世下ではまだ摂関家に力はあったのですが、鳥羽治世下の摂政関白・藤原忠実は未熟が故に白河と論争になり警戒されて罷免されるという事態に発展するほど仲が悪くなり、白河に対抗するどころじゃなかったんです。鳥羽も何もできないまま息子の崇徳天皇に譲位させられています。
(崇徳天皇)
ちなみに崇徳の母は白河の愛人なので鳥羽は「叔父子」と呼んで冷遇したとか。この行為が後々大問題を引き起こします。
鳥羽が完全に無力の状態は1129年に白河が77歳で崩御することで終わりを迎えます。
鳥羽、悲願の政務履行
ここから白河と同様に28年もの鳥羽の院政が続くことになります。まず白河院政への反発から白河に罷免された藤原忠実を関白に復帰させて、崇徳を前述の通り疎んで1141年には退位させています。そして崇徳を産んだ待賢門院璋子に代わって美福門院得子を寵愛しました(美福門院が生んだ子が崇徳の次の近衛天皇)。同様に白河の院近臣を排除して自らの側近で固めます。この中にふるわなかった源氏に代わって西国で大活躍した平忠盛(清盛の父)の昇殿を認可しています。
鳥羽の出家と専制
近衛天皇を即位させた翌年(1142年)、鳥羽は東大寺にて出家します。その後近衛は藤原摂関家や皇室の後継者争いに板挟みになったまま1155年に17歳の若さで崩御します。
そうするとまたまた後継者争いが起こり崇徳上皇に院政をされたくなかった美福門院の訴えが認められて崇徳の弟・雅仁親王が後白河天皇として即位しました。大天狗の登場です。
ここで崇徳と鳥羽の対立が起こるのですが、ここからは次回へお預けですね。
という訳で次回かの有名な保元・平治の乱についてです。