2019年総まとめ!今年のニュース
どうも未来の日本史博士です。
今年最後の記事は2019年の総まとめということで今年話題になったニュースをざっと振り返っていきたいと思います。見出しをヒントによかったら当ててみてください。
なんといっても今年は…
天皇陛下の即位が何よりも目玉ですよね!それに付随して改元も大きな関心を呼んだニュースでした。さらに大嘗祭や即位パレードといった一世一代の行事にも日本中が湧きたちました。
まさか…
4月15日のノートルダム大聖堂の火災、10月31日の首里城焼亡が話題となった悲しいニュースでした。現在復興に向けて多くの人々が立ち上がっています。ぜひ応援したいですね。
あの有名人が…
11月29日、中曾根康弘元首相が101歳で亡くなりました。数々の改革を断行し、ロンヤス外交と呼ばれるレーガン元大統領とも親交を深めたことで有名です。国鉄を解体させてJRを作ったのも中曾根首相でした。
もうそんなに…
在職中の総理大臣・安倍晋三氏の首相通算在職日数が11月26日に2887日となり、歴代最長となりました。政治とカネの問題や桜を見る会、共通テスト&英検の問題などの数多くの問題を抱えていたものの野党の追及を逃れ安倍一強が続いています。野党は終結に向けて動きを進めるもののイマイチ…。来年の動向に注目です。
新紙幣は…
新1万円札には実業家・渋沢栄一氏の肖像が選ばれました。近代への道を進む日本の経済を発展させた偉人です。2024年から使われ始めます。
38年ぶり!
11月23日に歴代で二回目となるローマ教皇フランシスコが来日し、話題となりました。
原爆投下地である広島や長崎に向かったり、東京ドームでミサを行ったりと多くの人と交流されました。
大規模な交通規制
6月28、29日にG20大阪サミットが開幕しました。大きな交通規制が敷かれ、派手にニュースになったことは覚えている人も多いでしょう。大阪城でエレベーターについて触れた安倍総理が物議を醸しています。
今でも韓国・文在寅大統領と安倍総理の握手シーンは日韓関係のニュースで使われていますね。
待ちに待った世界遺産登録!
7月6日、大仙・古市古墳群が世界遺産に登録されました。大阪府民としてはとても嬉しいニュースでしたね。一方でどうやって観光するのかといった意見も上がったり…。観光資源として有効に、でも天皇陵なので程々に活用してくれることを願っています。
詳しくは以下の記事をどうぞ。
見つかった!
ポールアレン財団の調査によって10月18日に加賀、21日に赤城が沈没したミッドウェーで見つかりました。日本のために戦い、沈んだ貴重な航空母艦です。このミッドウェー海戦を機に太平洋戦争の戦況は大きく変わりました。時代の転換点で活躍した遺産です。
ようやく脱退か
EUの離脱の是非を巡ってもめているイギリスで7月24日にメイ政権の退陣に伴う選挙でボリス・ジョンソン氏が首相に就任しました。
また12月12日ジョンソン首相率いる保守党が下院の総選挙で過半数を獲得しました。EU離脱に向けて加速することでしょう。年明けすぐに何かが起こることでしょう。
戦いは終わらない
10月27日にアメリカ軍によってイスラム国のバクダーディ容疑者が殺害されました。
しかし、イスラム国は後継者を指名、まだまだ戦いは続きそうです。
まとめ
歴史ニュースだけではないものもありましたがいかがでしたか。僕の主観で選んでいるので忘れているものもあるかもしれないですが、何かあればコメントお願いします。
忙しくあっという間の一年だったか、長い一年だったか、皆さんはどう感じましたか?
来年はオリンピックイヤーです。来年も皆さんに歴史の面白さを伝えていくつもりです。来年以降もどうぞよろしくお願いいたします。よいお年を。
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承久の乱の責任はいづこに?その2
どうも未来の日本史博士です。
前回に続いて承久の乱の責任について解説したいんですが、今回は誰のせいで、というよりどうして負けたのか、ということをメインに話を進めていきます。
二本立てになっているのでまずは1本目から見ることをおすすめします。
では早速始めましょう!
どうして幕府側は勝てたのか①
そもそも義時に勝つという想定があったのか、というところが論点になりそうです。義時はもしも天皇自身が挙兵した場合、弓を引く訳にはいかないので鎧を捨てろ、と部下に命令しています。もっとも部下だけが出てきた場合は徹底的に叩け、と言ったそうですが。
少なくとも天皇に反抗するつもりは皆無だったようです。
それでも幕府側が勝てたのは北条政子が下級武士を扇動したことが大きいと考えられます。
(北条政子)
上級の武士であれば朝廷の威光を慮っていたため躊躇したりする人もたくさんいたようですが、下級の武士は頼朝のおかげで成り上がれたため政子に扇動されればもう動くしかないですよね。
こんな感じの精神論で勝ち組に加勢しようと考えていた人たちはどんどん幕府側になだれ込みました。
どうして幕府側は勝てたのか②
(後鳥羽上皇)
後鳥羽上皇側には大きな誤算が重なりました。そもそも義時追討の綸旨を出した時に降伏してくると思っていたのにまさかの宣戦布告が返ってくるとは…といった感じだったそうですよ。そしてここからの動きが幕府側より劣っていたのです。多くの武士をかき集めるのは圧倒的に幕府側が勝っていました。
さらに侵攻してきた幕府軍が京都に迫ってくるのが予想以上に早すぎたのです。後鳥羽上皇側は比叡山延暦寺に向かうも僧兵たちには力が及ばないと拒否されます。ちなみに比叡山側に断られたのには1つ理由があるといわれています。それは高野山を優遇するあまりに比叡山に対して厳しくなりすぎた、ということです。
上皇側が坂本の方まで逃げ込んだためにそのまま京都中心部に侵攻したのですが、ここにおいても幕府側の動きの方が早かったのです。西国の武士に招集をかけて、いざ集まろうというときに幕府側はすでに入京していたのですから。
そのためもしも上皇側の方が初動が早かったら形勢逆転も十分考えられたと言われています。歴史にifはないと言いますが、単純に結論だけを見て話しをするのは良くないですね。
とはいえ、鎌倉幕府側は北条泰時本人が大軍を引き連れて、宇治に乗り込んで戦争を終わらせます。結果が全てといいますが、その中身が実際鎌倉幕府側の方が初動対応が早く、士気が高かったわけです。
矛盾している内容を書き連ねましたが、様々なことを調べて考えるのが日本史の醍醐味の一つです!
次回は両統迭立についてです。
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承久の乱の責任はいづこに?その1
どうも未来の日本史博士です。
今回は承久の乱に関わった人物の事績、承久の乱の戦後処理について解説します。早速解説していきます。
皇室関連の処理
82代後鳥羽天皇
ある種の首謀者であります。終盤責任転嫁にはしったものの幕府側は首謀者として認識していました。そこで7月9日に北条泰時が19万の大軍を率いて上京しました。そのまま隠岐に連行されて(42歳)そのまま60歳で崩御します。仏教勢力に対しては比叡山で対立したり、熊野勢力を味方に引き入れるために熊野詣を繰り返したりと戦略的に捉えていました。和歌だけでなく、書画や刀剣、蹴鞠など数多くの文化を振興した天皇としてはあまりにも対局的すぎる最期でした。
83代土御門天皇
部外者と言えば部外者。本人は後鳥羽上皇の傀儡に過ぎなかったので承久の乱には全く関連しておりません。しかし、本人の性格上父が流されたのに自分だけ京都に残るのは忍びない、と考えていたため自ら土佐(高知)への配流となりました。その後幕府側の配慮によって阿波(徳島)に移転、宮殿まで造営してもらえました。父・後鳥羽とは対照的におとなしく、情け深い性格だったようです。そのため物足りないと思った後鳥羽は弟の順徳に皇位を譲るように迫ったようです。在位中は外祖父・源通親に、その後は後鳥羽の院政に政治を行われたためほとんど表舞台に立つことのなかった土御門は37歳で崩御しました。
84代順徳天皇
後鳥羽に同調して討幕を唱えていた人物。もちろん戦犯認定で佐渡へ配流されました。即位後から討幕の意思を固めていたようです。皇室の伝統を重んじて古典として有名な「禁秘抄」という書物を作成するくらい有職故実の研究を熱心に行っていました。
祖母が平教子であり、その影響もあってか源氏への少なくない恨みが原動力になっていたと思われます。
85代仲恭天皇
父である先代・順徳天皇が承久の乱に参加すべく退位してしまったので、たったの4歳で即位しました。前回の記事で書いたように朝廷側はあっけなく敗北してしまいます。事後処理として朝廷に幕府側だった(幽閉されていた)西園寺公経を中心として、幕府と親しい公家を表舞台に立たせます。
即位から数か月後、北条義時は承久の乱の責任をとらせる形で摂政を解任された九条道家に引き取らせ、退位させました。かつては「九条廃帝」と呼ばれていたものの明治時代になってから天皇として認められました。
朝廷側の公家の処理
藤原秀康・山田重忠
秀康は北面、西面の武士であり、西国の国司を務めました。承久の乱では朝廷側の総大将です。重忠は尾張地方の地頭だったものの、朝廷との関連が強く、承久の乱でも後鳥羽上皇に従いました。
秀康は奈良に逃れたところ、捕らえられて斬られました。重忠は部下が討ち取られた挙句、自害して果てました。
西園寺公経
幕府側と関係が深かったため、後鳥羽上皇によって幽閉されました。しかし、前述の通り、北条義時によって内大臣に復権、権力を手にした公経は北山に別荘を建てました。ちなみにその別荘を買収して、鹿苑寺を建てたのが足利義満です。
九条道家
鎌倉幕府第4代将軍藤原頼経の父であり、仲恭天皇の外祖父にあたります。源頼朝と仲の良かった九条兼実は道家の祖父です。さて、本人は直接承久の乱に関わってはないのですが、摂政を罷免されます。そして皇位を廃された仲恭天皇を17歳で亡くなるまで自分の屋敷で蟄居という形で預かりました。まあその後は関白に就任して…と全盛期を迎えるんですが、この記事では省略。
幕府側の動き
幕府が六波羅探題を設置して朝廷の監視にあたりました。初代探題には2代執権・義時の息子(後の3代執権)泰時が就任しました。そして多くの西国の武将が朝廷側に味方したため、領土を没収。それらを恩賞として東国の武士たちに与えました。
こうして幕府一強の統治体制が確立されていくのです。
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前代未聞の東西戦争~皇室VS鎌倉政権~
どうも未来の日本史博士です。
今回はついに承久の乱についてです。
承久の乱のバックグラウンドについては前回の記事をご覧ください。
さて早速開戦から解説していきます!
ほんとのほんとの前日譚
1221(承久3)年5月14日、後鳥羽上皇は流鏑馬揃えを名目に西国への武士をかき集めました。幕府側の京都守護(幕末の京都守護職とは違います)の伊賀光季は後鳥羽の招集を拒否しました。同様に幕府と仲の良かった藤原一族の末裔・西園寺公経は幽閉されます。
翌日の15日には後鳥羽陣営は行動を起こします。伊賀光季邸宅を襲撃、光季は奮戦むなしく討ち死するも、鎌倉に情報を届けます。そして北条義時追討の勅令を出します。後鳥羽陣営はさすがに天皇の命令には逆らわないだろうと楽観的だったようです。
(西園寺公経)
伊賀光季からの上皇挙兵の知らせ、幽閉された西園寺公経からの同様の書状を受け取った鎌倉側はすぐさま行動起こします。上皇からの宣戦布告の書状を持ってきた使者を拘束します。そして兵士の招集を始めます。鎌倉武士には大きく二つの種類の人間がいました。そこで忠義に厚い武士には北条政子が頼朝の御恩を説く「山よりも高く、海よりも深く」といった有名な演説をします。
(北条政子)
一方の損得勘定を優先する武士には鎌倉が勝てば恩賞をたっぷり与えるという旨の書状を送り、味方につけました。この辺の行動は鎌倉幕府側の方が早かったのです。
開戦!
鎌倉幕府側は宣戦布告されているため箱根方面で防衛に走る作戦、京都に侵攻する作戦の二案が組まれました。政子の決断で後者が取られ、
・北陸方面(北条朝時軍)4万騎
・中央高地方面(武田信光軍)5万騎
にわけて攻撃を開始しました。
ここで前述の拘束していた使者に鎌倉幕府側の宣戦布告を知らせる書状を持たせて送り返します。当初おとなしく降参すると踏んでいた上皇は狼狽して藤原秀康に京都の防衛を命じます。
しかし、圧倒的な兵力差に敵うはずもなく、北陸・岐阜で防衛線を破られた上皇軍は瀬田の唐橋で京都を守ることにします。
天下分け目の瀬田の唐橋
瀬田の唐橋といえば、以前大友皇子と天武天皇が戦った壬申の乱で有名です。そのあたりはこちらの記事をご覧ください。
さて、宇治・瀬田方面に軍を進めた鎌倉側は20万近くの兵力になりました。これに動揺した後鳥羽は自ら比叡山に登り、僧兵への助力を頼んだものの拒否されます。
そのため仕方なく残っている全兵力を瀬田に向かわせました。
その後は言うまでもなく幕府側の圧勝に終わります。しかし、実際のところは、豪雨によって橋が渡れず、多数の溺死者を出しつつも渡河したのです。それだけの代償を払ってさえ上皇軍は勝てなかったのです。兵力差が見てとれるようですね。
そのまま鎌倉軍は京都になだれこみ、荒らされた挙句に後鳥羽は責任転嫁を始めます。
御所で宇治・瀬田での敗戦を知った後鳥羽に次の一戦を進言すべく御所に訪れた総大将藤原秀康らを門前払いして、「裏切り者の讒言で開戦に踏み切った」という旨の文書を鎌倉側に送ります。秀康と共に跳ね除けられた山田重忠は「大臆病の君に騙されてしまった」と罵りました。
こういう流れがあって秀康、重忠らは寺院に立てこもったものの、奮戦むなしく敗走します。こうして承久の乱は終わりを迎えたのでした。
次回、承久の乱の戦後処理についてです。
<総集編>後白河天皇の生涯
どうも未来の日本史博士です。
今回は数回に亘ってお届けした後白河天皇の生涯をざっくりと追ったサイトマップです。
誕生~即位
1127(大治2)年、9月11日鳥羽天皇と待賢門院の間に生まれます。青年期は今様にハマって兄貴の崇徳天皇からは「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と罵倒され後に源頼朝からは「日本一の大天狗」と罵られます。そもそも皇位を継ぐ立場にはなく、遊びふけっていたようです。そんな後白河は兄・近衛天皇の崩御によって中継ぎとして即位。
この辺りのことは以下の記事をご覧ください。
在位中~保元の乱
特にこれといった実績はなく、鳥羽の院政下で求められた中継ぎとしての役割を果たします。そして自身の息子である二条天皇に皇位を譲ります。
鳥羽の策略もあって崇徳と仲の悪かった後白河の側近・信西が鳥羽の遺志を組んで、そして藤原摂関家の跡継ぎ問題と重なって保元の乱が発生します。
結果なども含めて以下の記事で解説しています。
平治の乱
簡単に言うと後白河院政下で調子に乗り過ぎた信西が保元の乱の恩賞に不満を持った源義朝と手を組んで、それを打倒すべく平清盛が立ち上がったものです。この時に後白河は源氏側によって二条天皇もろとも一時幽閉されてしまいます。
結果も含めてさらに詳しく書いてあるので以下を参照してください。
平家との確執
当初は平清盛が融和策を講じていました。その後六条天皇、高倉天皇が即位したころに清盛が娘・徳子を高倉に入内させて、誕生した皇子を安徳天皇として即位させようと画策します。そして清盛の専横が強まって、後白河は幽閉されます。
この辺りの話をこちらでしています。
二帝並立
こんな珍しいことはこの時代と南北朝時代くらいです。清盛が安徳天皇を即位させたものの平家の力は衰えて、西国に逃れます。そこで後白河は新たに息子である後鳥羽天皇を即位させます。この辺りの深い事情が下の記事を読めば分かります。
源平合戦
木曽義仲が入京し、平家が西国に落ちて、壇ノ浦の戦いで滅亡するまでのお話です。
鎌足幕府との駆け引き
平家滅亡に大きな役割を果たした源義経は兄である源氏の棟梁・頼朝から大した褒美をもらえず、不満を募らせます。これを察した後白河は義経を検非違使に任命して仲を引き裂こうとします。これに自分の断りもなく官職をもらった、と頼朝は激怒して義経追討を命じます。さらにその義経追討の一環として守護、地頭の設置を認めてしまいます。その結果どうなったのか、ぜひ本編を読んでください。
まとめ
平家と組んだり、源氏と組んだり、仲たがいさせてみたり、いろんなことに手を出して武士による政権の発展を促進させてしまった、という意見や時代の流れに逆らえなかった、という意見、文化的な促進に一定の成果があった(梁塵秘抄/今様の歌集の作成)、という意見などあらゆる意見があり賛否が分かれますが激動の時代を統治した迷君だったことでしょう。
という訳で今回は後白河天皇の生涯編でした。
今度は後鳥羽天皇の生涯についてまとめてみようかと考えています。
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承久の乱直前の一騒動
どうも未来の日本史博士です。
ようやく即位関連の行事が一通り落ち着いたので天皇の歴史シリーズを進めていきたいと思います。
というわけで前回の後鳥羽院政に続く時代をピックアップしてしていきます。
ではさっそく始めます!
源実朝の在位中
前回に解説した通り、2代将軍・頼家が北条政子以下御家人衆に更迭され、伊豆の修善寺に幽閉されてしまいました。その後は北条家を中心とした合議制が敷かれたようですがここでは割愛。そのまま頼家の弟・実朝が3代将軍に就任しました。
実朝は政治に関与する機会が少なく、主に文化的な活動をしていました。例えば宋に行こうと船を建造したり、「金槐和歌集」なるものを編纂したり…。このおかげで文化人でもあった後鳥羽上皇(後鳥羽自身も「新古今和歌集」を編纂しています)と友好的になり、公武融和に貢献していました。
鶴岡八幡宮暗殺事件
しかし、実朝が右大臣に就任したことの昇進祝いを鶴岡八幡宮にて行う機会があり、そこで悲劇が起こりました。
あろうことか時の将軍が先代・頼家の息子の公暁に刺殺されたのです。
ここで後鳥羽が動きます。そもそも実朝に子供がおらず、後鳥羽の皇子を次の将軍に据えようと考えていました。しかし、そんな物騒な場所に息子を送れない!と後鳥羽は踵を返したため一気に険悪ムードとなります。結局藤原摂関家から分裂した九条家より九条頼経を迎えました。
(ちなみにですね、江戸時代の和宮降嫁のときもそうなんですが、親王格の皇子を東国に送り込んでしまうと皇位継承権を持っているため皇室が分裂しかねないという懸念もありました。そんなこんなで摂家将軍を迎えることになるんですが、もう少ししたら皇族将軍が登場するのでお楽しみに)
それはさておき、ある意味軍事を専門とする「公家」であった源氏将軍家を手中におさめようとしていた後鳥羽はその立場が北条一族に奪われたことを不満に感じ、前述の将軍後継者問題で火種がくすぶります。
後鳥羽は開戦止む無しという立場でしたが、土御門上皇や摂政・近衛家実らの公卿は大反対、順徳天皇は大賛成という立場をとっていました。
何なら順徳に至っては皇位を自分の子に譲り、85代仲恭天皇として即位させました。順徳はフリーとなって討幕に全力をつぎ込みます。1221(承久3)年の事でした。
同じ年の5月に流鏑馬をするという名目で朝廷の支配が行き渡っていた西国の武士をかき集めました。
そして開戦の火蓋が切り落とされるのです。
次回、承久の乱!お楽しみに!
文武両道!後鳥羽天皇
どうも未来の日本史博士です。
ついに後白河院政編が完結し、鎌倉幕府編に入ってきたところです。
後白河法皇自身は頼朝が出資して再建された法住寺殿に移住して間もなくの1192年に崩御、その後九条兼実らのあっせんによって頼朝が征夷大将軍に任命されることで鎌倉時代が始まりました。
というわけでその辺りから後鳥羽天皇に焦点を当てて解説していきます。
後鳥羽天皇の異例の即位
後鳥羽が即位する頃は安徳天皇の時代です。しかし、平家の力が日に日に弱まっていき、多くの公家らを敵に回したため、後白河は新帝を即位させることを画策します。
(後鳥羽天皇)
そんな中の1183年、木曽義仲が京都に入ります。そして安徳天皇を連れて平家一門が福原の方に逃げていきます。それも三種の神器を抱えて。ちょうどゴールデンウィークの時に行われた即位儀式の中で剣璽等承継の儀が行われましたよね。
これこそが天皇が即位したことを示すものだったのです。というわけで三種の神器がないと即位をしたと証明できないんですよ。
さて、後白河はどうしたか?
答えは三種の神器を携えないまま即位したのでした。
(イメージ)
その即位の証明に使われたのは後白河の詔でした。さらに言えば壇ノ浦の戦いにて「草薙の剣」が海没してしまったためについにそろうことがなかったのです。
後鳥羽の治世
天皇としての治世での事績はあまり多くありません。ずっと後白河院政の時代でしたから。後白河の崩御後に九条兼実の薦めで源頼朝を征夷大将軍に任命したことは特に有名ですね。
(九条兼実)
ちなみに一部の公家と、兼実と疎遠になった頼朝の画策で兼実本人は朝廷から追い出されます。これは建久七年の政変と呼ばれます。
後鳥羽の院政
1198年に後鳥羽は83代土御門に皇位を譲ります。
後白河のこともあってか頼朝にとって院政は邪魔な存在だったため、できれば譲位してほしくなかったようですが、煩わしいしきたりや儀礼、政務から逃れて自由を手にしたい後鳥羽は三人の親王のなかからくじで長男の為仁親王を皇太子としました。
頼朝にとって朝廷は日本の軸であるが故に重要視していたため、あまりぞんざいに扱う訳にもいかず、結局譲位を認めました。
娘の大姫を失った頼朝は1199年に落馬事を起こして亡くなります。まあ糖尿病だったともいわれていますけどね。
(源頼家)
その4年後の1203年には頼朝の長男・2代将軍頼家も北条氏によって将軍職を解任、幽閉され、弟の実朝が3代将軍に就任します。
そうして公家の中でも重鎮が消え、鎌倉側でも頼朝がいなくなったため後鳥羽は最強の権力者となりました。
もう誰も後鳥羽を止められない、そんな感じの雰囲気の中で3代将軍・実朝の死後に幕府との対立を深めて承久の乱へと向かっていくのです。
次回は承久の乱について、その後は鎌倉文化(仏教、後鳥羽の推進した文化)についてお送りしていきます。
〈特集〉即位礼正殿の儀のまとめ
どうも未来の日本史博士です。
10月22日に即位礼正殿の儀が無事に執り行われました!
今回は延期になった祝賀御列の儀直前特集ということでざっくりとタイムテーブル順に流れをおさらいしていきます。
賢所大前の儀まで
10月22日当日の流れについて順を追っていきます。
午前9時03分頃:天皇皇后両陛下が賢所(宮中三殿)にて賢所大前の儀を行いました。
午前7時03分頃に宮中三殿に移動してから始まります。
まずは天皇陛下が「帛御袍(はくのごほう)」をお召しになり、天皇の証である剣爾を持った侍従を従えて賢所の内陣に入り、大和言葉で「御告文」を読まれ、その後、皇霊殿と神殿に順にご報告されました。
その後、皇后陛下が「五衣」「唐衣」「裳」という装束を身を包まれ、天皇陛下同様に宮中三殿にご報告されました。
宮中三殿には皇祖皇孫(天照大御神と歴代天皇)が祀られており、即位したことを報告する儀式を行ってから即位礼正殿の儀に臨まれました。
即位礼正殿の儀
まずは諸外国の来賓の入場、知事や各方面に功績を残した方々が松の間の向かいの特設ステージに入場します。
その後三権の長の入場です。正殿・松の間に入っていきます。
続いて天皇皇后両陛下以外の皇族の入場になります。
秋篠宮文仁親王殿下は「黄丹袍(おうにのほう)」と呼ばれる皇太子のみが着ることができる束帯をお召しになり「垂纓冠(すいえいかん)」「帯剣(たいけん)」を帯びて現れました。
秋篠宮妃紀子内親王殿下以下の女性皇族方は「五衣」「唐衣」「裳」をお召しになり、男性皇族は束帯が原則ですが、今回秋篠宮文仁親王殿下を除いて唯一参列される常陸宮正仁親王殿下は車椅子に乗って生活されているため勲章を着用した燕尾服をお召しになって車椅子で参加されました。
13時05分になると天皇皇后両陛下が松の間にお入りになり、天皇陛下は高御座、皇后陛下は御張台に入られます。
この時、天皇陛下は「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」という天皇陛下のみが着用できる束帯姿でした。皇后陛下は「御五衣(おんいつつきぬ)」「御唐衣(おんからぎぬ)」「御裳(おんも)」という白を基調とした十二単をお召しになっていました。男性皇族は冠を、女性皇族は御垂髪(おすべらかし)という伝統的な髪型で臨まれました。
天皇陛下が高御座に入られる時に剣、御璽、国璽、を侍従に持たせて引き連れ、高御座の中に置かせます。
準備が完了した後に宮内庁職員による鉦の合図で一同が起立、
高御座と御張台を開きます。
続いて鼓の合図によって参列者が敬礼し、内閣総理大臣が松の間に入ります。
侍従が天皇陛下から笏を受け取って天皇陛下が読まれるお言葉が書かれた紙を受け取り、
13時17分に天皇陛下がお言葉を読み上げられました。
ここで天皇陛下のお言葉です。
上皇陛下が三十年以上にわたる御在位の間、常に国民の幸せと世界の平和を願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その御心(みこころ)を御自身のお姿でお示しになってきたことに、改めて深く思いを致し、ここに、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。
国民の叡智(えいち)とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。(引用:読売新聞)
その後再び天皇陛下が笏を受け取られ、安倍総理大臣の寿詞です。
謹んで申し上げます。
天皇陛下におかれましては、本日ここにめでたく「即位礼正殿の儀」を挙行され、即位を内外に宣明されました。一同こぞって心からお慶(よろこ)び申し上げます。
ただいま、天皇陛下から、上皇陛下の歩みに深く思いを致され、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、日本国憲法にのっとり、象徴としての責務を果たされるとのお考えと、我が国が一層発展し、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを願われるお気持ちを伺い、深く感銘を受けるとともに、敬愛の念を今一度新たにいたしました。
私たち国民一同は、天皇陛下を日本国及び日本国民統合の象徴と仰ぎ、心を新たに、平和で、希望に満ちあふれ、誇りある日本の輝かしい未来、人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ時代を創り上げていくため、最善の努力を尽くしてまいります。
ここに、令和の代(よ)の平安と天皇陛下の弥栄(いやさか)をお祈り申し上げ、お祝いの言葉といたします。
続いて天皇陛下のご即位を祝って、安倍総理大臣による万歳三唱、
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地所属の第一特科隊の礼砲中隊が甲武装を纏って105mm榴弾砲M2A1から21発が発射されました。
「天皇陛下、万歳」の「て」で合図が行くらしいですね。
あとは始まりの逆です。高御座、御張台の幕が閉じられて、鉦の合図で参列者一同が着席します。
その後、13時35分天皇皇后両陛下、皇族方が退出され、最後に三権の長が退出して即位礼正殿の儀が終わりとなります。
(引用元:全てTHE PAGE)
以上、退場の様子でした!
祝賀御列の儀には僕も行くのでその内容についても特集を組んでいきます。
後白河法皇と源頼朝の駆け引き
どうも未来の日本史博士です。
さて、ついに平家滅亡までこのブログも進みました。となると、次に政権を握ろうと画策したのは源頼朝です。という訳で今回は源頼朝、義経、そして後白河、後鳥羽を中心に話を進めていきます。では早速始めましょう!
義経と頼朝の確執
(源義経)
鵯越の逆落としとか、八艘飛びとか、常人離れした様々な戦法でも有名ですよね!でも義経もやはり人です。褒めてもらいたいし、ご褒美も欲しいんです。でも頼朝は義経を冷たくあしらいました。平家追討の戦いの最中に頼朝の腹心・梶原景時と仲たがいして讒言されたとか、弟を贔屓すると他の家臣に示しがつかないとか、いろいろ理由があったんです。そうはいってもやはり、義経にしてみれば悔しいことこの上ないんです。どれだけ頑張っても功績を認めてもらえなければつらいですよね。
そこで義経は直接後白河院に褒美を求めたのです。すると後白河院はあっさりと検非違使に任命しました。
(検非違使)
さて、何でだと思います?後白河にも彼なりのやり方があったんです。彼自身天皇に即位するまでは政治には何の興味も示さなかったんですが、即位後は如何にして天皇家の勢力を向上させるかを常に考えてきました。藤原氏の力を削ぐことができ、平家も滅び、あとは源氏一族を弱体化させれば全ては上手くいったのです。そのため、義経を検非違使に任命することで頼朝と頼朝に従わない義経の対立関係という構図を作り出したのです。まあここで大誤算が生じるんですけどね。
後白河院がやらかした史上最強の大誤算
果たして、何が誤算だったのか?
それは後白河院が義経に頼朝追討の院宣を出したことに始まります。激怒した頼朝は義経を捕まえるべく守護と地頭の任命権を後白河院に求め、後白河院はそれを承認してしまいます。これによって租税、警察制度は全て頼朝の管理下になりました。簡単に言えば、政治機能を渡してしまったんですね。これが1185年のことです。最近ではこの頃に鎌倉幕府が成立したという見解もありますね。そのまま義経は奥州藤原氏の拠点・平泉に逃げ込み、時の当主であった藤原泰衡の裏切りによって衣川の館で自害します。
(中尊寺金色堂)
無念のヒーローって感じですね。僕が歴史に興味をもったのもこういう出来事がはかないなぁって思うのと同時に、宿命なんだろうか、今の世の中でも同じような状況が生まれるのだろうか、と気になったからなんですよ。
(源頼朝)
それはさておき、頼朝は1189年には奥州藤原氏を滅ぼし、公家の権力者・九条兼実を摂政に任命させて仲介してもらうことによって1192年に征夷大将軍に就任、正式に武家政権が花開き、ここに後白河院の野望は露と消えたのです。
次回、鎌倉幕府と初期の動乱について解説していきます。また番外編として平安末期から鎌倉初期にかけての公家の動向、また、奥州藤原氏についての記事もお送りしたいと思っています。乞うご期待!
空母加賀が発見された!で、加賀ってどんな船?
どうも未来の日本史博士です。
実は僕はミリタリー好きでして、加賀発見のニュースにとても湧いています!
という訳でたくさんの人に加賀について知ってもらうべく、この記事を書きます。
加賀の主要諸元
母港 | 佐世保港 |
建造年/場所 | 1928年3月31日 川崎造船所(艤装のみ横須賀海軍工廠) |
最期 | 1942年6月05日沈没 ミッドウェー |
基準排水量 | 38200t |
速力 | 26.7ノット |
全長 | 238.51m |
乗員 | 1269人 |
艦載機 | 三式艦上戦闘機16機/一〇式艦上偵察機16機/一三式艦上攻撃機28機 |
兵装 | 20cm連装砲4門/20cm単装砲6門/45口径12cm連装高角砲12門/13mm連装機銃4基/留式機銃2挺 |
空母の速さの必要性
この時代、艦載機はどうやって発艦したでしょう?
ちなみに現在は蒸気や電気の力でカタパルトを使って一気に加速することで飛んでいきます。しかし、戦争が始まるころはそんな科学技術はありません。そのため風の向きに合わせて30ノットまで加速することで飛行機が飛べる速度に合わせていました。
そして今回の加賀ですが「ロ号艦本式ボイラー」というものを搭載していました。艦本式というのは艦政本部が開発した国産のボイラーという意味らしいのですが、実は最大戦速でも28ノットしかでないのです。まあ飛行甲板が広くて飛ばしやすいので人気だったようです。
戦艦時代、三段甲板時代
そもそも空母には「飛龍」「瑞鶴」といった空を飛ぶ縁起の良い生物から名前を取っています。ですから「加賀」という名前はイレギュラーなわけです。では、何故か?
ヒントは「陸奥」「山城」「武蔵」「大和」分かりますか?
答えは旧令制国の名前を取っています。という訳で「加賀」という名前の通りもともと戦艦として作られたんです。でもワシントン海軍軍縮会議で主力艦(戦艦)の保有が正弦されてしまったんです。だから抜け道として空母に改装することにしたんです。
で、世界的に珍しい三段式の飛行甲板を備えた空母に生まれ変わりました。
一段式空母時代、太平洋戦争開戦直前まで
三段の場合、意外と効率が悪いらしいんですよ。二段目からは艦載機は飛ばせず、三段にしたせいで艦載機の数も少なかったんです。同時期に巡洋戦艦から改装された「赤城」が「加賀」よりも5ノット程早いため一緒に行動できません。そういった事情を踏まえて性能改善、甲板全通化のため呉海軍工廠にて再改造が行われました。
こうして出来上がった「加賀」は帝国海軍空母のスタンダードモデルとしてこの形が引き継がれています。
「加賀」の初戦は第一次上海事変です。この戦闘自体は引き分けに終わったものの帝国陸海軍史上初めての敵機を撃墜しています。
この後に前述の改造が行われ、第二次上海事変にも参加、太平洋戦争が勃発します。
次回、真珠湾攻撃からミッドウェー海戦まで、そして加賀発見についてです。
空母「加賀」について、10月22日の即位礼正殿の儀、11月10日の祝賀御列の儀についての特集を組むので天皇の歴史シリーズはいったんお預けになります。
ともあれ、それなりの頻度で更新していくので、乞うご期待!