藤原一族の野望#4 藤原基経のいちゃもん!?
どうも未来の日本史博士です。
今回は人臣初の関白・藤原基経、そして臣籍降下したものの皇族に復帰して即位した宇多天皇についてです。
≪今回のキーパーソン≫
今回の時代の天皇 | 宇多天皇 | 皇位887年~897年 上皇位897年~931年 |
時の権力者 | 藤原基経 藤原時平 菅原道真 |
前記事参照 贈正一位太政大臣 同上 |
源氏の天皇
宇多は先代・光孝の第7皇子として生まれたもののこの時子供が多すぎて皇室財政を逼迫していたので、困った朝廷は子供を源姓を与えて臣籍降下させました。さらに台頭した藤原氏が藤原氏と関係の薄い親王を出家させたりしていました。
が、しかし、光孝が即位したのは高齢だったため病に倒れ、しかも後継者を決めなかったのでまあ大騒ぎ。そこで急遽源定省(さだみ)が親王に立てられて皇太子になった。
その後光孝が崩御、それを受けて定省が宇多天皇として即位しました。
宇多天皇と基経との確執
宇多は即位しました。しかし、基経は宇多は一度人臣になっていることと、賢明だったことが気に食わないらしくて事件は起こります。
即位した年に基経は関白に任じられました。その時の勅書にて「宜しく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」というものでした。ここからは有名ですよね。さて、解説しましょう。阿衡というのは古代中国の故事にちなむもので名目上の位があるだけで実権はないというものだと文句をつけて事態しました。
結局長期化して政務が滞り困り果てたために宇多側が再三説得して宇多が謝りを認める勅令を出したため基経は関白に就任して決着しました。藤原氏が天皇の権力を超えることを証明した事件でした。
寛平の治
基経の死後、今回のことがないように宇多は対応を取りました。
まずは菅原道真の登用。藤原氏に権力が集中しないようにしました。基経の跡を継いだのが息子の時平です。中学校の授業でも出てくる遣唐使を廃止を道真が進言した一件。(ちなみに廃止ではなく必要ないと停止させただけです。)そもそも道真を邪魔に思った時平が遣唐使の大使に道真を推したんです。でも宇多は道真の意見を受けて遣唐使を停止しました。
その他に国司に租税の権利を与えて形式になり始めていた律令制度を再構築しました。また私営田を抑制したり、「滝口の武士」という清涼殿の護衛を担当する衛兵を設置したりと、とにかく朝廷を立て直すために改革を行いました。
初の法王
宇多は仁和寺を創建しました。宇多はこの仁和寺を気に入り、31歳のとき子供の醍醐天皇に皇位を譲って出家、日本史上初の法王となり65歳まで生きましたとさ。
まとめ
とにかく面白い人生を歩んだ天皇でしたね。臣籍降下から即位、基経との阿衡事件から菅原道真の重用。そして出家からの大往生。
歴代の天皇の中でもとても行動的な天皇で後醍醐天皇なども参考にしています。
次回以降も乞うご期待!