仏教の伝来と皇室のかかわり(後編)~蘇我氏についての考察を交えて~
どうも未来の日本史博士です。
前回、前編と題して欽明天皇までの歴史を解説しました。
今回は続きというわけで敏達天皇以降について語ります。
では、早速始めていきましょう。
敏達天皇
ここはさっといきたいと思います。あまり多くの情報はないので…
物部守屋を大連、蘇我馬子を大臣として政局にあたらせたんですが、
(蘇我馬子肖像画)引用:日本の歴史.com
守屋は仏教を排斥したいと考え、馬子は仏教を崇拝するよう促したため、対立が激化してしまいました。
その後、守屋は30代敏達天皇の許可を得て仏像を海に捨ててしまい、祟りが疱瘡として現れてしまい、結局敏達自身が疱瘡にかかって崩御してしまいました。
用明天皇
藤原氏でよく見る自分の娘を天皇の嫁にして、自分が天皇の外祖父になる方式あるじゃないですか。下の図のような…
引用:history-land.com
蘇我氏もその方法使ったんですよ。というわけで続き解説続けていきます。
31代用明天皇は父が欽明で、母が蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)です。さっきの藤原氏の例と同様に蘇我氏は権勢をふるいました。
ちなみに用明の皇后には堅塩媛の妹・小姉君の娘である穴穂部間人皇女を迎え、蘇我氏との血の繋がりがとても強くなりました。
引用:wikipedia
さらに、用明自身は即位2年目で病に倒れてしまい仏教への帰依を願うようになったと言います。仏教を取り入れようとする蘇我氏にとっては幸運に幸運が重なっています。
また、病がより重くなり、仏師の奏上を受け入れて仏像と寺をつくることを許可しています。
次回の話に登場する聖徳太子は用明の皇子で法隆寺の薬師如来像は亡き用明のために作ったとか。
そもそも蘇我氏の出自は?なぜ仏教を信仰したのか?
ここからは皇室よりは蘇我氏をメインにして古代学を話していこうと思います。
そもそも蘇我氏はどうして仏教を信奉したのでしょうか。
その理由は周囲にいた渡来人が関係していました。彼らは主に朝鮮から来た人で、言うまでもなく仏教を信仰をしていました。そこで蘇我氏は仏教をあえて信仰することで渡来人とより強固な関係を結ぼうと考えたのでしょう。(あくまで個人の意見です。)
ちなみに蘇我氏自体がイスラエル人だとか、渡来人だとかいう論もありますが、それは分からないですね。一応系譜上では神功皇后のときに活躍した武内宿禰の子孫と言われています。
www.xhimiko.com
神功皇后の話についてはこちらから。
ただ、少なくとも渡来人と密接な関係にあったのは事実です。あくまで個人の見解ですが神功皇后の朝鮮出兵のときに渡朝した武内宿禰が朝鮮現地で子供を設けその子孫が蘇我氏に繋がっていったのではないか、と推測しています。
今回は敏達、用明天皇について、そして仏教と蘇我氏とのかかわりについて解説しました。次回以降も乞うご期待!