仏教の伝来と皇室のかかわり(前編)
誰もが知ってるであろう仏教の伝来。
そこに蘇我氏と物部氏の争いがあったことは周知の事実ですよね?
じゃあ、その時皇室がどう関わったのか深く掘り下げていきましょう!
安閑天皇と宣化天皇
27代安閑と28代宣化は同母兄弟です。もちろん父は26代継体ですよ。
継体についての話は以下をどうぞ。
で、安閑が即位したときにはすでに65歳で在位期間は短いにもかかわらず、各地に屯倉を設置するなどの功績を残し、天子を誉め称える声が天地に充満したそうです。どうでもいい話ですが、屯倉を設置したっていう天皇多いんですよね。理由がとても気になります。
その後、安閑に実子がいなかったため、宣化が即位しますが、こちらも即位したのは69歳でした。大伴金村、物部麁鹿火、蘇我稲目を大臣(おおおみ)としました。その他、新羅に攻められた任那へ救援の兵を出すなど外交面でも積極的に行動したそうです。それでは本題へ…
仏教が伝来した
この時即位したのは29代欽明天皇です。欽明は継体の実子で、安閑と宣化とは異母弟です。
欽明の治世での政治的背景を先に説明しておきます。
金村と物部尾輿が大連、蘇我稲目を大臣として政務を任せていました。
大連(おおむらじ)とは軍事、裁判を担当する役職で、大臣(おおおみ)とは経済、外交を担当する役職です。
で、金村が任那を百済に割譲したことを咎められて失脚、その後は二大豪族が政務を務めていた矢先、仏教が伝来しました。百済の聖明王から552年に仏像1体と、幡蓋(はたきぬがさ)と経典が献上されたそうなんですが、さあどうなったことなのでしょう?
欽明は臣下を集めて、どうするべきか相談したそうで、稲目は賛成しましたが、尾輿は国神の祟りを恐れて反対、真向から対立してしまいました。結局欽明は稲目に仏像を授け、稲目は寺を建てて、熱心に祀ったんですが、稲目に女神は微笑まず、疫病が流行、尾輿が仏像を信じたためだと訴えて寺を焼き払い、仏像を捨ててしまいます。お互いに反目しあい、皇位継承権をめぐった争いを混ざっていきます。
ここで若き聖徳太子が登場するのですがその件はまた次回。