藤原一族の野望#2 誰もが知る源氏の祖先
どうも未来の日本史博士です。
今回は55代文徳天皇、56代清和天皇についてです。本題は清和ですがまずは文徳の時代から解説していきます。さあ始めましょう。
≪今回のキーパーソン≫
今回の時代の天皇 | 55代文徳天皇 56代清和天皇 |
皇位850~858 皇位858~876 |
時の権力者 | 藤原良房(太政大臣・摂政) | 太政大臣857~872 摂政858~872 |
文徳天皇
前回紹介した承和の変で立太子された道康親王がそのまま即位して文徳天皇となりました。でも文徳が即位できたのは良房のおかげですよね。だから文徳に発言権はないんです。
良房は太政大臣にまで昇進して文徳の次の天皇まで決めてしまいました。文徳自身は自分の第一子の惟喬親王を皇太子のしようと考えていたのに、良房が自分の娘・明子との子である惟仁親王を即位させようとしたため文徳が遠慮して結局惟仁親王が皇太子になりました。
ちなみに惟喬親王はというと木地師というお椀を作る職人の祖になりました。
源氏の祖先の天皇
清和源氏。たとえば源義家。たとえば源義経。たとえば源頼朝。全部清和源氏の血統です。その祖先である清和天皇は9歳で即位しました。もちろん藤原良房が外戚として監督しました。その良房は嵯峨天皇の娘・潔姫(臣籍降下して源氏姓を与えてから)をもらい、妻としました。そのため他に側室を置かなかったので子供が明子しかいなかったんですよ。先述の通り明子と文徳との子供が清和です。
本題に戻りまして、良房はさらに地位を盤石にするために兄貴の藤原長良の娘・高子を入内させました。高子は「伊勢物語」で在原業平と恋に落ちたエピソードで有名ですね。清和と高子の子が次の天皇となる貞明親王です。彼もなかなか波乱の人生を送った天皇ですので次回紹介します。
ある時、平安京内裏の朝堂院の応天門が炎上しました。ここでさらに良房はこの事件を利用して伴善男、源信を失脚させました。これが「応天門の変」です。そして清和が成人してるにも関わらず良房は摂政に就任して摂関政治が始まりました。
源経基の臣籍降下
じゃあ題名になっている源氏の話をしましょう。
清和ー貞純ー六孫王(源経基)
こういう血統で源氏につながっていきます。詳しくは後述の家系図で。
経基は平将門の乱、藤原純友の乱では現地に到着する前に鎮圧されて、全く成果も上げられなかったものの鎮守府将軍にまで上り詰めました。そして晩年に源氏姓が与えられ、臣籍降下しました。こうして2世紀ほど後の武家政権の基になる源氏が誕生したのです。
(引用:家系図で見てみようameblo.jp)
敢えてここで紹介すると平氏は平安京を開いた桓武天皇の子孫から出ています。
今回はここまでです。
次回以降もここまで乞うご期待!