未来の日本史博士の時典

大メンテナンス中です。また、現在、新たなブログの改良を始めております。

MENU

藤原一族の野望#11 摂関政治の最高潮②

どうも未来の日本史博士です。

今回は道長、頼通親子の全盛期の摂関政治体制についてです。

≪今回の時代のキーパーソン≫

今回の時代の天皇 後一条天皇
後朱雀天皇
後冷泉天皇
在位1016年~1036年
在位1036年~1045年
在位1045年~1068年
時の権力者 藤原道長
藤原頼通
摂政太政大臣・准三宮
摂政関白太政大臣・准三宮

 

後一条天皇

道長には極めて従順な天皇でした。そりゃそうなんですけどね。道長に逆らえるわけがないですよね。だって即位した時の年齢が9歳ですよ!

道長の娘(後一条の叔母)威子を迎え(一条の皇后・彰子、三条の皇后・姸子を含め)「一家立三后」を実現させて祝いの席で有名な句「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という句を詠んでいます

 後一条が即位したと同時に道長は摂政に就任しましたが翌年に26歳の頼通に譲り太政大臣として実権を握り、その後は頼通は関白として権力を振りかざしました

道長の晩年はとにかく荘厳な法成寺を建築しそこで亡くなりました。

この時代で最も大きな事件は「刀伊の入寇」ですかね。海賊(女真族)が九州北部を荒らしまわったという事件です。ここで活躍したのが花山法皇に矢を放って左遷された太宰権帥・藤原隆家です。九州の豪族を率いて撃退を成功させたことに朝廷からの褒美がないとして訴えてきたことに対して道長側と実資(中立を貫き三条天皇の支援をした)側で論争が起こりました。結果実資の意見が通り道長側も寝返って褒賞を与えました。

後一条は威子を娶ったものの子宝に恵まれず、29歳の若さで崩御しました。

後朱雀天皇

三条の息子に位を譲るという取り決めを交わして敦明親王東宮に立てましたが道長の圧力に屈して辞任した、っていう話を前記事で書きましたよね。

その後任として東宮に立てられたのが後一条の弟・敦良親王です。後一条の崩御と同時に後朱雀天皇として即位しました。本人は厳格な性格だったようですが実権は頼通が握っていてまたしても傀儡のような存在でした。後朱雀には道長の娘・喜子を入内させて皇后になり息子・親仁親王を生んだものの、産後の肥立ちが悪く2日後に亡くなりました。もう一人、後朱雀に入内したのが三条と姸子の子・禎子内親王です。禎子は後に後三条天皇となる尊仁親王を生んで皇后になっています

この時代、比叡山延暦寺の開設者最澄の弟子・円仁と円珍が喧嘩して京都にまで影響が及びました。後朱雀の治世の中でも僧徒同士で争って騒動が乱発し訴状を出す、なんていう事件が起こり頼通に至っては自分の邸宅を焼かれています。

世が荒れたのが自分のせいだと考えていた後朱雀は疱瘡に罹ってしまいました。後朱雀と頼通の関係が悪化していたので頼通の異母弟能信と共謀して尊仁親王東宮に立てるように頼んで崩御しました。残念ながら後朱雀の後見は頼通が決めて尊仁は避けられました。

後冷泉天皇

結局親仁親王が即位したものの摂関政治の全盛中の全盛時代だったため言いなりになるしかなかったんです。そのため蹴鞠や管弦楽、和歌に没頭して朝廷や政治に関わろうとしませんでした道長の息子頼通と教通(頼通と同母弟、前述の能信とは異母弟)が娘を入内させ、もともといた中宮を含めて三人の皇后を並列していました。この三后立」という状況は後冷泉が史上唯一です。

前九年の役って知っていますか?1051年、つまり後冷泉の治世下に起こった戦乱です。源頼義安倍頼良を討伐したものです。事後、源頼義は安倍頼義の甥の宗任を連れて伊予に転出したようです。で、「安倍」って言葉に引っかからないですか?なんとこの宗任の子孫が今の首相・安倍晋三だと言われています。

この戦乱を含めて世の中が荒れ始め、末法思想が広がっていきます。同時に浄土信仰も広がって平等院鳳凰堂を代表する国風文化が完成するのです。

後冷泉は晩年に頼通の別荘だった平等院行幸した後に病気になり、翌年崩御しました。

次回後三条天皇の即位と摂関政治の崩壊についてです。

 

アウトドアに関するブログ(アウトドアのすすめ)を立ち上げたのでぜひそちらも読んでください。どうぞよろしくお願いします。