持明院統と大覚寺統とは何ぞや?について解説②
どうも未来の日本史博士です。
北条義時の物語が大河ドラマ化することになりましたね~。今回のお話は義時の時代のしばらく後ですが、その時代の話は承久の乱シリーズ辺りにまとまっていると思うのでぜひ読んでください。
今回こそ南北朝の動乱の直接的な原因となった両統迭立についての解説をしていきます。
何はともあれ始めちゃいます。
後嵯峨天皇の即位
そもそも88代後嵯峨の即位にもひと騒動あったのでそのあたりからお伝えしていきます。
もともと承久の乱の後に82代後鳥羽の血筋を廃すべく、無理矢理86代後堀河を皇位につけたわけだったんですが、87代四条がたったの12歳で崩御したため跡継ぎがいなくなりました。
(sirdaizine.comさんからの引用)
そこで時の権力者・九条道家と西園寺公経はかつて幕府打倒を掲げて承久の乱に参加した84代順徳の子の忠成王を次の天皇候補として推薦しました。でも幕府側からすれば、もしも忠成王が即位すれば父である順徳が上皇として院政する可能性(少なくとも政局に関与する可能性)が出てくることは何としても避けたいことでした。
ちょうど、村上源氏(平安時代の62代村上の子孫)の一派は83代土御門の子の邦仁王を推薦しました。
この状況だと幕府側は間違いなく後者を推すことは目に見えていたにもかかわらず、道家は鎌足幕府執権・北条泰時に意見を求めます。
前回の記事をみてもらえば分かるんですが、北条家は道家の子である4代将軍・藤原頼経との関係が悪化していました。
なので幕府側は道家の権勢を抑えることも含めて邦仁王を推挙、正式に88代後嵯峨天皇が誕生したのです。
宮将軍の誕生
後嵯峨は在位中は西園寺家と親戚関係となり権勢を維持しました。即位から4年後の1246年に時の太政大臣・西園寺実氏の娘との間にできた皇子を89代後深草として即位させ、自らは退位しました。その後20数年に亘って院政を行います。
そのころ鎌倉では北条泰時が亡くなり、将軍・藤原頼経が反北条派と手を組んで北条一族を打倒しようという企みが起こるも、失敗しました。これによって頼経は京都に送還、息子の藤原頼嗣が5代将軍になりました。
(4代将軍藤原頼経)
けれども頼経は諦めません。京都で再起を謀って再び北条一族打倒の策略を練っていました。そこで5代執権時頼は5代将軍藤原頼嗣も京都に送還し、後深草の兄・宗尊親王を6代将軍に据えました。いわゆる宮将軍の誕生です。
ここで後嵯峨上皇、後深草天皇は時頼に協力し、幕府から朝廷への援助を獲得しています。
後継者問題
後深草は女性関係があまり華やかではなかったようで、その点で後嵯峨が弟(後の90代亀山)へ気持ちが傾く原因の一つになったとされています。
後深草が病を患ったことも原因にあるともされていますが、後嵯峨の意向によって後深草は弟に譲位、弟は90代亀山天皇として即位しました。
次回は両統迭立第三弾として後深草上皇と亀山天皇の後継者争いについて解説していきます。
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