摂関政治の崩壊の始まり
どうも未来の日本史博士です。
今回は藤原氏による摂関政治が崩壊する最初の段階の時代を解説します。
20数年越しの即位
藤原頼通と弟・教通は後冷泉天皇に娘を入内させたもののどうも子供が生まれることがなく仕方なく先代後朱雀天皇と道長と仲の悪かった三条天皇の娘である禎子内親王との子・尊仁親王を東宮に立てたものの頼通は認めようとせず、雲行きが怪しかったのです。
しかし、後冷泉が亡くなると一気に形成が逆転し、尊仁が後三条天皇として即位します。「170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇の即位」なんて言われますが、曾祖父が道長なので縁がないわけではありません。
摂関家を気にもとめない行動
摂関家がなぜ発展できたのか?もちろん運や政敵を排除できたことも大きかったですが、なによりも所有する荘園が多く存在していたことが重要になってきます。やっぱり税収が多いとおのずと発展しますよね。それを抑えるべく後三条は荘園整理令を発令します。この功績が後世評価され教科書にも載るほどになります。記録荘園券契所を設置してたとえ摂関家の所有している土地だとしても否応なしに、徹底的に整理して弱体化、土地利用の正常化を図りました。また身分にとらわれず中流貴族を登用したり、度量衡を整備して「宣旨枡」なるものを作ったりしました。その他たくさんの経済策を実行しました。
後継者選び
後三条には二人の皇后がいました。一人は源基子です。苗字の通り藤原氏とは何の関わりがなく、生まれた子供を立太子させましたが15歳でなくなってしまいます。もう一人が藤原茂子です。またもや藤原氏か?と思うかもしれませんが、茂子は藤原摂関家の支流の閑院流(後の三条、西園寺、徳大寺家の祖)出身の人物でして摂関家との直接の関わりはなく、茂子との子が次の天皇・白河となります。
白河天皇についての内容は次々回に解説します。
次回は「なぜ摂関家が衰えたのか?」について考察していきます。乞うご期待!
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