未来の日本史博士の時典

大メンテナンス中です。また、現在、新たなブログの改良を始めております。

MENU

後白河の院政と平治の乱


f:id:gonikyuroku:20190821173509j:image

どうも未来の日本史博士です。

しばらく時間が空きましたが、前回に引き続き後白河天皇についてです。ちなみに更新していない無い間に槍ヶ岳縦走していましたので姉妹ブログにてつらつらと書いていきます。

では、早速始めます。

 

後白河の譲位

そもそも保元の乱以前から藤原信西が実権を握っていました。なぜなら信西鳥羽天皇の寵臣だったからです。そのため戦後に信西が主導権を握り(この時後白河は傀儡でした)保元の荘園整理令を公布しています。

その後、近衛天皇の母で鳥羽の寵妃として実権を持っていた美福門院得子と信西が話し合って後白河に譲位させて二条天皇が即位しました。

信西と二条側の確執


f:id:gonikyuroku:20190821172437j:image

二条天皇

藤原信西の排除を目論んで二条天皇の側近が立ち上がった、これが平治の乱です。もう少ししっかりと解説すると、二条側の公卿たちは親政(天皇直接の政治)を行いたかったのですが、信西が絶大な権力を基盤として後白河院政を推し進めようとして不仲になりました。さらに後白河陣営の中でも信西と権力争いをしていた藤原信頼が台頭してさらにややこしい状況になっていました。そこに源平の争いもあったんですがここでは多くは書きません。

平治の乱


f:id:gonikyuroku:20190821172506j:image

藤原信頼NHK大河・平清盛

この三つ巴の対立が爆発したのが1159年の平治の乱です。信頼と源義朝(頼朝の父)が組んで平清盛がいない隙を狙って二条天皇後白河上皇がいる御所に攻め込みました。f:id:gonikyuroku:20190821172818j:image
そして信西を殺害、二条、後白河を幽閉します。

f:id:gonikyuroku:20190821172635j:image信西の首)

が、熊野にいた清盛がすぐさま二条天皇六波羅に脱出させ、後白河は自力で脱出して反撃に出ました。この時すでに信西が殺害されていたので後白河には無関心で脱出しやすかったようです。これを知った義朝は信頼を「日本第一の不覚人」と罵倒したというエピソードが残っています。それくらい大きな出来事であったのは間違いなく、その後は多くを語るまでもなく二条派と清盛の圧勝で終わりました。

f:id:gonikyuroku:20190821172836j:image(引用:歴史まとめ.net)

二条派が立場をころころと変えたのでじっくり調べないと分かりにくいんですが、ざっと書くとこんなストーリーですね。

次回後白河の院政平清盛の台頭です。