<総集編>後白河天皇の生涯
どうも未来の日本史博士です。
今回は数回に亘ってお届けした後白河天皇の生涯をざっくりと追ったサイトマップです。
誕生~即位
1127(大治2)年、9月11日鳥羽天皇と待賢門院の間に生まれます。青年期は今様にハマって兄貴の崇徳天皇からは「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と罵倒され後に源頼朝からは「日本一の大天狗」と罵られます。そもそも皇位を継ぐ立場にはなく、遊びふけっていたようです。そんな後白河は兄・近衛天皇の崩御によって中継ぎとして即位。
この辺りのことは以下の記事をご覧ください。
在位中~保元の乱
特にこれといった実績はなく、鳥羽の院政下で求められた中継ぎとしての役割を果たします。そして自身の息子である二条天皇に皇位を譲ります。
鳥羽の策略もあって崇徳と仲の悪かった後白河の側近・信西が鳥羽の遺志を組んで、そして藤原摂関家の跡継ぎ問題と重なって保元の乱が発生します。
結果なども含めて以下の記事で解説しています。
平治の乱
簡単に言うと後白河院政下で調子に乗り過ぎた信西が保元の乱の恩賞に不満を持った源義朝と手を組んで、それを打倒すべく平清盛が立ち上がったものです。この時に後白河は源氏側によって二条天皇もろとも一時幽閉されてしまいます。
結果も含めてさらに詳しく書いてあるので以下を参照してください。
平家との確執
当初は平清盛が融和策を講じていました。その後六条天皇、高倉天皇が即位したころに清盛が娘・徳子を高倉に入内させて、誕生した皇子を安徳天皇として即位させようと画策します。そして清盛の専横が強まって、後白河は幽閉されます。
この辺りの話をこちらでしています。
二帝並立
こんな珍しいことはこの時代と南北朝時代くらいです。清盛が安徳天皇を即位させたものの平家の力は衰えて、西国に逃れます。そこで後白河は新たに息子である後鳥羽天皇を即位させます。この辺りの深い事情が下の記事を読めば分かります。
源平合戦
木曽義仲が入京し、平家が西国に落ちて、壇ノ浦の戦いで滅亡するまでのお話です。
鎌足幕府との駆け引き
平家滅亡に大きな役割を果たした源義経は兄である源氏の棟梁・頼朝から大した褒美をもらえず、不満を募らせます。これを察した後白河は義経を検非違使に任命して仲を引き裂こうとします。これに自分の断りもなく官職をもらった、と頼朝は激怒して義経追討を命じます。さらにその義経追討の一環として守護、地頭の設置を認めてしまいます。その結果どうなったのか、ぜひ本編を読んでください。
まとめ
平家と組んだり、源氏と組んだり、仲たがいさせてみたり、いろんなことに手を出して武士による政権の発展を促進させてしまった、という意見や時代の流れに逆らえなかった、という意見、文化的な促進に一定の成果があった(梁塵秘抄/今様の歌集の作成)、という意見などあらゆる意見があり賛否が分かれますが激動の時代を統治した迷君だったことでしょう。
という訳で今回は後白河天皇の生涯編でした。
今度は後鳥羽天皇の生涯についてまとめてみようかと考えています。
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