後白河法皇と源頼朝の駆け引き
どうも未来の日本史博士です。
さて、ついに平家滅亡までこのブログも進みました。となると、次に政権を握ろうと画策したのは源頼朝です。という訳で今回は源頼朝、義経、そして後白河、後鳥羽を中心に話を進めていきます。では早速始めましょう!
義経と頼朝の確執
(源義経)
鵯越の逆落としとか、八艘飛びとか、常人離れした様々な戦法でも有名ですよね!でも義経もやはり人です。褒めてもらいたいし、ご褒美も欲しいんです。でも頼朝は義経を冷たくあしらいました。平家追討の戦いの最中に頼朝の腹心・梶原景時と仲たがいして讒言されたとか、弟を贔屓すると他の家臣に示しがつかないとか、いろいろ理由があったんです。そうはいってもやはり、義経にしてみれば悔しいことこの上ないんです。どれだけ頑張っても功績を認めてもらえなければつらいですよね。
そこで義経は直接後白河院に褒美を求めたのです。すると後白河院はあっさりと検非違使に任命しました。
(検非違使)
さて、何でだと思います?後白河にも彼なりのやり方があったんです。彼自身天皇に即位するまでは政治には何の興味も示さなかったんですが、即位後は如何にして天皇家の勢力を向上させるかを常に考えてきました。藤原氏の力を削ぐことができ、平家も滅び、あとは源氏一族を弱体化させれば全ては上手くいったのです。そのため、義経を検非違使に任命することで頼朝と頼朝に従わない義経の対立関係という構図を作り出したのです。まあここで大誤算が生じるんですけどね。
後白河院がやらかした史上最強の大誤算
果たして、何が誤算だったのか?
それは後白河院が義経に頼朝追討の院宣を出したことに始まります。激怒した頼朝は義経を捕まえるべく守護と地頭の任命権を後白河院に求め、後白河院はそれを承認してしまいます。これによって租税、警察制度は全て頼朝の管理下になりました。簡単に言えば、政治機能を渡してしまったんですね。これが1185年のことです。最近ではこの頃に鎌倉幕府が成立したという見解もありますね。そのまま義経は奥州藤原氏の拠点・平泉に逃げ込み、時の当主であった藤原泰衡の裏切りによって衣川の館で自害します。
(中尊寺金色堂)
無念のヒーローって感じですね。僕が歴史に興味をもったのもこういう出来事がはかないなぁって思うのと同時に、宿命なんだろうか、今の世の中でも同じような状況が生まれるのだろうか、と気になったからなんですよ。
(源頼朝)
それはさておき、頼朝は1189年には奥州藤原氏を滅ぼし、公家の権力者・九条兼実を摂政に任命させて仲介してもらうことによって1192年に征夷大将軍に就任、正式に武家政権が花開き、ここに後白河院の野望は露と消えたのです。
次回、鎌倉幕府と初期の動乱について解説していきます。また番外編として平安末期から鎌倉初期にかけての公家の動向、また、奥州藤原氏についての記事もお送りしたいと思っています。乞うご期待!