未来の日本史博士の時典

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後白河院政下の安徳・後鳥羽施政

どうも未来の日本史博士です。

以前から続く後白河による院政下での安徳天皇後鳥羽天皇の二帝並立について、そして平家の滅亡まで流れについてです。

それでは、どうぞ~

木曽義仲の興亡


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木曽義仲は始め京都に入って平家を京都から追い出すことに成功したので、征東大将軍に任命されました。が、しかし、ここで問題が起こるのです。もともと木曽というだけあって京都に比べると田舎だったわけです。なので作法がなってなかったわけです。しかも前回の記事で解説した通り、京都では食糧不足に陥っていて、義仲軍の兵士は食べ物を欲していました。そしてついに、我慢にも限界がきて乱暴や狼藉を都の一般人に行ってしまいます。入洛直後は不良同然だった平家の武士を追い出した功績から賞賛され、大目に見てもらっていました。でもだんだん都の人々の空気が変わり、後白河の義仲への信頼は失墜します。そして後白河は源頼朝に密かに義仲追討の院宣が下されます。これに怒った義仲は後白河の住む法住寺殿を襲い、公家を多く殺害してしまいます。この時に関白・近衛基通を罷免し、松殿師家を代わりに任命します。

その後義仲は源義経と瀬田唐橋にて争い、敗北。滋賀の粟津で敗死します。


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この時、松殿師家は失脚、以降松殿家は政治の表舞台から去ります。

平家滅亡

一時、源氏の中で内紛が起きたことにより、西国から福原に戻っていましたが、かの有名な義経の平家追討が始まります。まずは一の谷。鵯越の逆落としで有名ですね。f:id:gonikyuroku:20191016181132j:image
そのまま安徳を連れて屋島に逃げ込んだ平家一門でしたが、義経の策略に為す術もなく敗北。

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(このシーンは有名な那須与一が扇を撃ち落とすところです)
壇ノ浦に敗走します。まああとは分かりますよね。壇ノ浦の戦いで頭領・平宗盛以下平家一門は入水。安徳も清盛の妻・時子(二位尼)に抱かれて海の底に消えました。たった8歳で崩御するという今なお破られていない天皇の短命記録です。


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しかもこの時に三種の神器の一つである草薙剣が海の底に沈んでしまったのです。(実際のところ実物は熱田神宮に祀られているようなんです。御霊遷しという段階を踏んでいた複数のレプリカが存在していて、そのうちの一つを平家が持っていたとか)

同時に八尺瓊勾玉二位尼が帯同して海に沈んだものの、勾玉が入っていた箱ごと浮いてきたためそのまま回収できたとか。

この頃後鳥羽は後白河の院政下だったため、そして若年だったため、どうすることもできずにただひたすら従っているだけでした。

さて、ついに平家滅亡まで解説しましたが、次回は後白河最終章、源頼朝との確執~崩御について解説していきます。次回以降も乞うご期待!!