未来の日本史博士の時典

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猿でも分かる平城京と律令と天皇に関わり

どうも未来の日本史博士です。

今回の内容は藤原京から平城京に移るまでの流れの解説ですね。今回の話題は割とレアケースな運命をたどった天皇を紹介します。

じゃあ早速始めましょう!

 

平城京元明天皇


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前回紹介した文武が25歳で崩御しました。文武の息子には首皇子(おびとのおうじ)が遺児として残されていたんですが、たったの7歳で皇位を継承することができなかったので中継ぎとして文武の母である元明が即位しました。この血統での即位の仕方、つまり前の天皇から母親に継承されたという仕方は元明だけです。

じゃあ彼女の事績を解説しています。この翌年に秩父から和銅が献上されたことを瑞祥とみなして年号を和銅に改めました。そして貨幣を鋳造しました。これが和同開珎です。さらに2年後の710年に藤原京から平城京に遷都しました。さらに2年後、「古事記」が編纂されて元明に献上されました。

 

平城京の概要


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公式サイト  平城宮跡クイックガイド

唐の都・長安を模倣して建造したものです。最初は内裏程度の建造物しかなかったそうなんですが、徐々に増築されていったようです。平安京に遷都した後も平城京に遷都する計画や陰謀を企てた天皇もいました。その件についてはまたいつか紹介します。

敷地の形は平安京のように碁盤の目のように区切られているんですが、右京と左京の他に左京の外に外京がありました。中央の道は朱雀大路という名前で羅城門から平城宮に続いていました。4~5kmほどあったみたいですよ。ちなみに藤原京のなかで藤原宮(要するに政庁の中心である大極殿、朝堂院があった場所)は都の中心にあったんですが、平城宮の場合は平安京同様北の端にあったようです。


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引用:wikipedia
至る所に興福寺東大寺といった寺院が散在し、仏教的な影響を排除しようとして桓武天皇が遷都に踏み切るきっかけとなりました。

元正天皇


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元明首皇子皇位を継承するための中継ぎだったんですが、元明が老衰を理由に譲位を理由に譲位の意向を示した時にはまだ首皇子はまだまだ若かったので文武の姉が皇位を継承し、元正天皇となりました。現象は独身で即位した初の女性天皇で、かつ、歴代で唯一母から娘へ皇位を継承した天皇です。これまた激レアケースですよね。701年に制定された「大宝律令」を改訂して「養老律令」を制定しました。「養老律令」は今までの律令と変わりは無いので歴史的意義はそこまで大きくないんですが、「大宝律令」は現存していないので「養老律令」をもとに推測して研究を進めたそうです。720年には「日本書紀」を完成させました。さらには班田収授法を発展させて3代までの私有を認めた三世一身法を発布して農地の開墾を奨励しました。その後ようやく元正が譲位して首皇子、つまりは聖武天皇が即位して時代が変わり始めるのです。 

次回は聖武天皇について、です!

 

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