未来の日本史博士の時典

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律令政治とは何ぞや?について解説

 

どうも未来の日本史博士です。

天武天皇の解説を終え、次は天武の妻であり、天智の娘の持統天皇についてです。

「令和」という元号が発表されて、徳仁皇太子殿下が即位した後、今上天皇はどうなるのかといいますと、上皇という称号に変わるんですよね。そこで今回の話に絡めますと、持統天皇こそが日本で最初に譲位をして、上皇となった天皇なんです!

じゃあ、豆知識はこれくらいにして、解説をはじめます。 

 

持統天皇の治世


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この人物も立派なお方なようで歴史学の観点からも男女平等への活力剤にできればと思っているんですが、どんな人物なのか紹介していきます。

13歳で天武と結婚し、吉野へ隠棲した時や壬申の乱を起こした時も天武に付き従っています。天武が崩御した後、遺志を継いで即位しています。ただ、どうやら息子の草壁皇子をどうしても天皇にしたかったらしく、大津皇子に謀反の罪を着せて死に追いやりました。残念ながら草壁は夭逝、今度は草壁の子供である軽皇子を即位させようとしました。そういう訳で譲位に踏み切ったんです。

内政に関しては、飛鳥浄御原令を施行し、藤原京に遷都しました。

文武天皇

持統に15歳になったときに譲位され、天皇となりました。文武単体での事績ではあまりなく、持統の後見で政務が行われていました。最も有名なのが大宝律令の制定なんです。大宝律令の制定によって、太政官の下に8つの省などを設けて政府の体制を整えました。さらに班田収授法で口分田の管理を徹底され、租庸調などの税制のシステムを確立しました。

文武の皇后にはあの中臣鎌足の息子・藤原不比等の娘の宮子を迎えて藤原一族の繁栄の礎となりました。

<h2藤原京


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(朝堂院(手前)と大極殿(奥))

引用:manyuraku.exblog.jp

律令政治が今回のメインの話題のはずですが、藤原京の話も割とメインなので二本立てという感じでここからは読んでください。藤原京は唐の都・長安をもとに作られた、日本で最初に作られた大規模の都です。周囲は耳成山畝傍山天香久山に囲まれた戦国時代でいうところの「天然の要害」的なものです。別に敵が攻めてくるわけではないんですよ。ただ飛鳥浄御原宮の近くに広い平野があったからでしょうね。今も朝堂院(っていう儀式や政務を行う政庁)の南門の復元模型がありますよ。

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ここを拠点に持統は朝廷の政権の強化に努めていたと思うと個人的には何となくロマンチックだな~なんて考えてしまいますね。

今回は飛鳥浄御原宮から藤原京に移るまでの一連の流れを書きましたが、次回は藤原京から平城京への流れを書きます。

 

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