未来の日本史博士の時典

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院政の黎明期~白河天皇の治世~

どうも未来の日本史博士です。

今回は幕末まで続く院政を始めた白河天皇の治世についてです。天皇の中でも数々の逸話を残した白河は面白い人生を歩んでいるのでとにかく始めましょう!

 

 

譲位まで


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白河天皇

先代の後三条に譲位されて20歳で即位しました。父である後三条の遺志を継いで荘園整理、そして藤原氏の勢力を削ぐことに力を尽くしました。なので藤原教通・信長親子とは何度も対立しました。

じゃあどうして譲位しようと考えたのか?というのが一つの本題です。

それは、白河の女性関係が関連しています。白河の中宮には摂関家の養女である賢子を寵愛しました。賢子との間には善仁親王という子がいました。その子の即位によって摂関家の権力の再興を恐れた後三条、反摂関家派の貴族が善仁親王の即位に反対して白河の弟を皇太子に指名しました。

が、しかし、転機が訪れます。皇太子の人物が薨去したのです。もう一人弟がいたんですが、そっちのけですかさず善仁親王を皇太子にして、そのまま即位しました。先ほどの皇太子だった人物が薨去する前年に愛する妻・賢子を亡くしていることもあってどうしても自分の息子を即位させたかったようです。ちなみに賢子が亡くなった時にその遺体を抱いて離さなかったと言われています。

院政の開始

先述の通り院政を始めることが目的で譲位したわけではなかったんですね。でも善仁親王堀河天皇として即位したのはたったの8歳!さすがに政務を執れません。だから後見人に自らがなることで摂関家を抑え、亡き愛妻の子を見守り続けたんです。

 

院政によって摂関家が衰えたというのが教科書に書いてある一般的な論ですよね。でももともと白河は摂関家と仲良くやっていたんですよ。藤原頼通の息子・師実とも協調しており、成人した堀河と師通(師実の息子)が親政をしようとしていた時があったんですが、なんと成功しています。白河は黙認していたのです。

f:id:gonikyuroku:20190704201747j:image(藤原摂関家系図

が、しかし、堀河が29歳で崩御した後、白河が豹変します。師通が亡くなりその息子・忠実が若くして摂関家の当主になり、堀河の孫の鳥羽天皇が即位し、ガラッと情勢は変わりました。周りに政治権力をもった人がおらず完全に実権を掌握しました。人事権を乗っ取り、院近臣や北面の武士と呼ばれる人々を自分の周りにつけて専制政治を行いました。そして立太子や譲位、関白の職権停止なども操りました。

白河上皇については書きたいことも多いので次回に続けます。