鳥羽上皇と院政の確立期
どうも未来の日本史博士です。
今回は前回に引き続き白河上皇の院政について、そして鳥羽天皇について解説します。前回の記事の最後の方に鳥羽天皇と白河上皇の豹変について書きましたが、その辺りからじっくり語っていこうと思います。
さて前回の記事はこちらから。
では早速始めましょう!
鳥羽天皇の即位
(鳥羽天皇)
突如崩御した堀河天皇に代わって74代の鳥羽天皇が即位しました。でも即位している間は全ての実権を白河上皇に握られていました。人事権を乗っ取り、院近臣や北面の武士と呼ばれる人々を自分の周りにつけて専制政治を行った白河を前にして若年の鳥羽は為す術もなく、院政が本格化していきます。堀河治世下ではまだ摂関家に力はあったのですが、鳥羽治世下の摂政関白・藤原忠実は未熟が故に白河と論争になり警戒されて罷免されるという事態に発展するほど仲が悪くなり、白河に対抗するどころじゃなかったんです。鳥羽も何もできないまま息子の崇徳天皇に譲位させられています。
(崇徳天皇)
ちなみに崇徳の母は白河の愛人なので鳥羽は「叔父子」と呼んで冷遇したとか。この行為が後々大問題を引き起こします。
鳥羽が完全に無力の状態は1129年に白河が77歳で崩御することで終わりを迎えます。
鳥羽、悲願の政務履行
ここから白河と同様に28年もの鳥羽の院政が続くことになります。まず白河院政への反発から白河に罷免された藤原忠実を関白に復帰させて、崇徳を前述の通り疎んで1141年には退位させています。そして崇徳を産んだ待賢門院璋子に代わって美福門院得子を寵愛しました(美福門院が生んだ子が崇徳の次の近衛天皇)。同様に白河の院近臣を排除して自らの側近で固めます。この中にふるわなかった源氏に代わって西国で大活躍した平忠盛(清盛の父)の昇殿を認可しています。
鳥羽の出家と専制
近衛天皇を即位させた翌年(1142年)、鳥羽は東大寺にて出家します。その後近衛は藤原摂関家や皇室の後継者争いに板挟みになったまま1155年に17歳の若さで崩御します。
そうするとまたまた後継者争いが起こり崇徳上皇に院政をされたくなかった美福門院の訴えが認められて崇徳の弟・雅仁親王が後白河天皇として即位しました。大天狗の登場です。
ここで崇徳と鳥羽の対立が起こるのですが、ここからは次回へお預けですね。
という訳で次回かの有名な保元・平治の乱についてです。