承久の乱の責任はいづこに?その1
どうも未来の日本史博士です。
今回は承久の乱に関わった人物の事績、承久の乱の戦後処理について解説します。早速解説していきます。
皇室関連の処理
82代後鳥羽天皇
ある種の首謀者であります。終盤責任転嫁にはしったものの幕府側は首謀者として認識していました。そこで7月9日に北条泰時が19万の大軍を率いて上京しました。そのまま隠岐に連行されて(42歳)そのまま60歳で崩御します。仏教勢力に対しては比叡山で対立したり、熊野勢力を味方に引き入れるために熊野詣を繰り返したりと戦略的に捉えていました。和歌だけでなく、書画や刀剣、蹴鞠など数多くの文化を振興した天皇としてはあまりにも対局的すぎる最期でした。
83代土御門天皇
部外者と言えば部外者。本人は後鳥羽上皇の傀儡に過ぎなかったので承久の乱には全く関連しておりません。しかし、本人の性格上父が流されたのに自分だけ京都に残るのは忍びない、と考えていたため自ら土佐(高知)への配流となりました。その後幕府側の配慮によって阿波(徳島)に移転、宮殿まで造営してもらえました。父・後鳥羽とは対照的におとなしく、情け深い性格だったようです。そのため物足りないと思った後鳥羽は弟の順徳に皇位を譲るように迫ったようです。在位中は外祖父・源通親に、その後は後鳥羽の院政に政治を行われたためほとんど表舞台に立つことのなかった土御門は37歳で崩御しました。
84代順徳天皇
後鳥羽に同調して討幕を唱えていた人物。もちろん戦犯認定で佐渡へ配流されました。即位後から討幕の意思を固めていたようです。皇室の伝統を重んじて古典として有名な「禁秘抄」という書物を作成するくらい有職故実の研究を熱心に行っていました。
祖母が平教子であり、その影響もあってか源氏への少なくない恨みが原動力になっていたと思われます。
85代仲恭天皇
父である先代・順徳天皇が承久の乱に参加すべく退位してしまったので、たったの4歳で即位しました。前回の記事で書いたように朝廷側はあっけなく敗北してしまいます。事後処理として朝廷に幕府側だった(幽閉されていた)西園寺公経を中心として、幕府と親しい公家を表舞台に立たせます。
即位から数か月後、北条義時は承久の乱の責任をとらせる形で摂政を解任された九条道家に引き取らせ、退位させました。かつては「九条廃帝」と呼ばれていたものの明治時代になってから天皇として認められました。
朝廷側の公家の処理
藤原秀康・山田重忠
秀康は北面、西面の武士であり、西国の国司を務めました。承久の乱では朝廷側の総大将です。重忠は尾張地方の地頭だったものの、朝廷との関連が強く、承久の乱でも後鳥羽上皇に従いました。
秀康は奈良に逃れたところ、捕らえられて斬られました。重忠は部下が討ち取られた挙句、自害して果てました。
西園寺公経
幕府側と関係が深かったため、後鳥羽上皇によって幽閉されました。しかし、前述の通り、北条義時によって内大臣に復権、権力を手にした公経は北山に別荘を建てました。ちなみにその別荘を買収して、鹿苑寺を建てたのが足利義満です。
九条道家
鎌倉幕府第4代将軍藤原頼経の父であり、仲恭天皇の外祖父にあたります。源頼朝と仲の良かった九条兼実は道家の祖父です。さて、本人は直接承久の乱に関わってはないのですが、摂政を罷免されます。そして皇位を廃された仲恭天皇を17歳で亡くなるまで自分の屋敷で蟄居という形で預かりました。まあその後は関白に就任して…と全盛期を迎えるんですが、この記事では省略。
幕府側の動き
幕府が六波羅探題を設置して朝廷の監視にあたりました。初代探題には2代執権・義時の息子(後の3代執権)泰時が就任しました。そして多くの西国の武将が朝廷側に味方したため、領土を没収。それらを恩賞として東国の武士たちに与えました。
こうして幕府一強の統治体制が確立されていくのです。
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