未来の日本史博士の時典

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前代未聞の東西戦争~皇室VS鎌倉政権~


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どうも未来の日本史博士です。

今回はついに承久の乱についてです。

承久の乱のバックグラウンドについては前回の記事をご覧ください。

 

gonikyuroku.hatenablog.com

 さて早速開戦から解説していきます!

 

ほんとのほんとの前日譚

1221(承久3)年5月14日、後鳥羽上皇流鏑馬揃えを名目に西国への武士をかき集めました。幕府側の京都守護(幕末の京都守護職とは違います)の伊賀光季は後鳥羽の招集を拒否しました。同様に幕府と仲の良かった藤原一族の末裔・西園寺公経は幽閉されます。

翌日の15日には後鳥羽陣営は行動を起こします。伊賀光季邸宅を襲撃、光季は奮戦むなしく討ち死するも、鎌倉に情報を届けます。そして北条義時追討の勅令を出します後鳥羽陣営はさすがに天皇の命令には逆らわないだろうと楽観的だったようです。


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西園寺公経

伊賀光季からの上皇挙兵の知らせ、幽閉された西園寺公経からの同様の書状を受け取った鎌倉側はすぐさま行動起こします。上皇からの宣戦布告の書状を持ってきた使者を拘束します。そして兵士の招集を始めます。鎌倉武士には大きく二つの種類の人間がいました。そこで忠義に厚い武士には北条政子頼朝の御恩を説く「山よりも高く、海よりも深く」といった有名な演説をします。


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北条政子

一方の損得勘定を優先する武士には鎌倉が勝てば恩賞をたっぷり与えるという旨の書状を送り、味方につけました。この辺の行動は鎌倉幕府側の方が早かったのです。

開戦!

鎌倉幕府側は宣戦布告されているため箱根方面で防衛に走る作戦、京都に侵攻する作戦の二案が組まれました。政子の決断で後者が取られ、

・北陸方面(北条朝時軍)4万騎

・中央高地方面(武田信光軍)5万騎

東海道方面(北条泰時時房軍)10万騎

にわけて攻撃を開始しました。

ここで前述の拘束していた使者に鎌倉幕府側の宣戦布告を知らせる書状を持たせて送り返します。当初おとなしく降参すると踏んでいた上皇は狼狽して藤原秀康に京都の防衛を命じます

しかし、圧倒的な兵力差に敵うはずもなく、北陸・岐阜で防衛線を破られた上皇軍は瀬田の唐橋で京都を守ることにします。

天下分け目の瀬田の唐橋

瀬田の唐橋といえば、以前大友皇子天武天皇が戦った壬申の乱で有名です。そのあたりはこちらの記事をご覧ください。

gonikyuroku.hatenablog.com

 

さて、宇治・瀬田方面に軍を進めた鎌倉側は20万近くの兵力になりました。これに動揺した後鳥羽は自ら比叡山に登り、僧兵への助力を頼んだものの拒否されます。

そのため仕方なく残っている全兵力を瀬田に向かわせました


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その後は言うまでもなく幕府側の圧勝に終わります。しかし、実際のところは、豪雨によって橋が渡れず、多数の溺死者を出しつつも渡河したのです。それだけの代償を払ってさえ上皇軍は勝てなかったのです。兵力差が見てとれるようですね。

そのまま鎌倉軍は京都になだれこみ、荒らされた挙句に後鳥羽は責任転嫁を始めます

御所で宇治・瀬田での敗戦を知った後鳥羽に次の一戦を進言すべく御所に訪れた総大将藤原秀康らを門前払いして、「裏切り者の讒言で開戦に踏み切った」という旨の文書を鎌倉側に送ります。秀康と共に跳ね除けられた山田重忠は「大臆病の君に騙されてしまった」と罵りました。

こういう流れがあって秀康重忠らは寺院に立てこもったものの、奮戦むなしく敗走します。こうして承久の乱は終わりを迎えたのでした。

次回、承久の乱の戦後処理についてです。