未来の日本史博士の時典

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1000年の都 平安京とは何ぞや?について解説

どうも未来の日本史博士です。

前回は長岡京の話をしました。全然関係ないですが令和に変わりましたね。どうぞこれからもよろしくお願いします。

ではでは早速はじめましょう。

 

平安京の成立

前回長岡京について語りましたが、今回は平安京の成り立ちです。どうやって場所を決めたかです。現在もインテリアで配置を決めるときに使う風水ですね。風水を使ったんです。という訳でそのあたりを解説します。安倍晴明とかで有名な陰陽道も風水の一つです。特に四神相応という思想が深く関わっています。 

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(引用:今日もart&science)

とりあえずこのイラストでみてください。とても分かりやすいイラストを描く方がいらっしゃるんですね~。尊敬します!

本題に戻りまして、北に玄武、南に朱雀、西に白虎、東に青龍を配置して怨霊から都を守ろうと考えたんでしょうね。

で、しかも青龍に対応している鴨川は淀川につながっていて茅渟の海(現在の大阪湾)に至るので水運から見ても最高の立地だったわけです。

ちなみに平安京造営使に選ばれたのはあの有名な征夷大将軍坂上田村麻呂です。清水寺を造営したのもこの方です。

平安京造営


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平安神宮;げんざい現在は跡地に平安神宮が建っています。)

まずは平安宮から作ったそうです。大極殿を建てたり、朝堂院を建てたり…。その後朱雀大路を整備してどんどん造営したようです。桓武平城京にはびこっていた仏教勢力の排除も目的としていたので朝廷から認められていた東寺、西寺を除いて新たな寺院の造営を認めなかったようです。

造営の後

桓武崩御の後、平城京に戻ろうとする運動の薬子の変が起きました。そのことについては次回の記事で。

また敷地が広すぎるが故に家宅の造営があまり進まず、しかも右京は桂川の湿地帯があったので平安京が政治の中心から離れたころは農地になっているところもあったようです。980(天元3)年に羅城門(朱雀大路の南端)が崩壊して以降再建されることはなく、平安京が実質左京の北部に偏っていましたなので戦国時代で洛中といえばそこを指します。さらに後は聚楽第伏見城、二条城などの建造物が建てられ、平安宮(中心部)の政治機能はほぼ皆無でした。まあ詳しいことはいつか解説することにします。

次回以降も乞うご期待!