未来の日本史博士の時典

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どうして長岡京は捨てられたの??謎の遷都事情に迫る

どうも未来の日本史博士です。

今回はその後1000年ほど天皇の拠点となる平安京の一歩手前、長岡京についてです。とにかく早速始めましょう。

 

光仁天皇

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称徳が崩御して天智の孫の白壁王が即位しました。聖武の皇女の井上内親王(つまり称徳は姉妹)と結婚しました。なんと即位したのは62歳の時。70歳を過ぎても元気に活動していたようです。ここで問題なのは井上内親王とその息子・他戸親王光仁を呪い殺そうとして、逆に抹殺しました。

桓武天皇の即位

他戸親王はもともと皇太子で、前述の事件の後、代わって山部親王が皇太子になりました。ちなみに母は渡来系の人物です。781年光仁から譲位されて桓武天皇として即位しました。

桓武天皇の治世

有名なのは長岡京平安京の遷都、蝦夷征伐とかですね。順番に解説していきましょう。そもそもどうして遷都を試みたのか、ですよね。まあ簡単です。橘奈良麻呂恵美押勝の乱道鏡の陰謀そして口分田の荒廃…。しかも仏教勢力の増大。荒れ果てた都では誰も仕えようと思いませんよね。そんなわけで長岡京に遷都することを決意したんです。

長岡京遷都の失敗


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長岡京桂川宇治川、木津川の三川合流地点(つまり淀川につながる地点)にあります。当方が伏見に自転車で行ったときに三川合流地点で写真を撮ったので地理的なことは参考にしてください。で、話を戻して長岡京の話ですが、平城京のデメリットであった水運を河川の側に都を建造したために解決できました。もちろん上下水についても万事解決です。でもしかしここで問題が発生したんですよね。指揮官だった藤原種継が何者かに暗殺されたんです。その犯人は早良親王だと桓武は断定して、淡路へ配流しました。さてここで問題!このあと何が起こると思いますか?

答えは簡単。呪いですね。そもそも桓武は弟である早良親王を皇太子としていたんですが、子供が生まれちゃったんですよね。じゃあどうしたのか。早良に罪を擦り付けたんです。早良は認めず、絶食して護送中に亡くなりました。そして天変地異がたくさん起こると桓武はたたりを恐れて長岡京から撤退することを決めました。長岡京はおよそ10年間だけ使用されました。

平安京への遷都

まあ右往左往しつつも平安京遷都が決まったわけですが、さてどこを拠点にするのか?これはとても大事な問題ですよねー。現在もインテリアとかを考えるときに風水を使う人はいるじゃないですか。それです。風水を使って都の場所を決めたんです。という訳で長岡京よりももう少し北の地に決まりました。平安京についてはもっと詳しく次の記事で紹介します。