未来の日本史博士の時典

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都をめぐって兄弟げんか!?薬子の変

どうも未来の日本史博士です。

今回は桓武の次の平城天皇嵯峨天皇についてです。

さっさと始めちゃいましょう。

 

平城天皇の功

長岡京の一件で早良親王が廃位されたのはそもそも安殿皇子という人物が生まれたからです。そのあたりの話はこちらから。

gonikyuroku.hatenablog.com

その後その安殿皇子は平城天皇として即位しました。で、何をしたのか。これがまたすごいことで桓武が行った蝦夷の討伐、平安京の造営で逼迫した財政をものの見事に再建しました。理由は後述。

具体的には宮中儀式の簡略化、停止や、下級官人の待遇の見直しなどです。

桓武と平城の確執

妃としてとある娘を迎えました。なのに平城は娘の母である薬子を寵愛しました。そして薬子をひいきすると桓武は激怒。そりゃそうですよね。妃の娘はどうした!?ってキレますよね?だから平城は即位した後、桓武の政治を刷新して財政再建に努めたのでした。

平城の譲位

桓武崩御した後に薬子をまた側に置き、薬子の兄・藤原仲成と共に専横を極めました。薬子の夫の藤原縄主は従三位に昇進させて、太宰師として左遷しました。ちなみに即位後に即位礼を催したのは平城が最初です。でも病弱だったので弟の神野親王に譲位しました。

嵯峨天皇の即位と平城上皇の対立

上皇というだけでいろいろ話題が出てきますよね~。ともかく本題に戻りましょう。

譲位されて嵯峨天皇が即位しました。これは桓武の意向で嵯峨(神野親王)が皇太弟になり、そこから即位したんです。あれっ?皇太弟?今の秋篠宮文仁親王殿下の立場じゃないか!やっぱり126代も続くと先例もあるんだな~って改めて感じさせられます。ついでに言っておくと直近の皇太弟は霊元天皇あたりですね。たぶん。あ、話がそれましたね。

で、嵯峨が即位すると薬子と仲成が黙っていませんね。平城上皇に復位するように画策するようになりました。嵯峨は平城が作った官僚制度(前述)を潰そうとしていたので、それが気に食わなかったようです。

さあここで平城が動きます。孝謙淳仁の対立から上皇の政治権力が増大だという考えができていたようで、(下記参照)

gonikyuroku.hatenablog.com

平城京遷都令を出して朝廷を動かそうとしました。最初は従ったものの、嵯峨は拒否を決意。嵯峨は関所を封鎖して仲成を左遷、薬子の官位を剥奪。この行動を知った平城は挙兵。即刻鎮圧した後仲成を射殺しました。その後350年ほど死刑は行われていません。その後守りを固められたことを知って薬子は服毒自殺、平城は出家しました。この一連の流れを薬子の変といいます。このとき鎮圧に関与したのが坂上田村麻呂です。最強の武将ですね~。

弘仁文化

薬子の変のあとは政局が安定。皇室の儀礼や、律令の改革を行いました。

また華やかな弘仁文化も開化しました。漢詩、中国史を学ぶ学問が発展し、書道も発展しました。嵯峨、空海橘逸勢の三人は三筆と呼ばれるほど秀でていました。

次回は嵯峨の次、淳和天皇についてです。