未来の日本史博士の時典

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藤原一族の野望#9 摂関政治の最高潮①

どうも未来の日本史博士です。

今回解説する時代は藤原道長が実権を握った最盛期の時代です。

前文で特記することはないのでさっさと解説に移りましょう。

≪今回のキーパーソン≫

今回の時代の天皇 66代一条天皇 在位986年~1011年
時の権力者 藤原兼家
藤原道長
藤原伊周
摂政
内覧(関白の実質の役職)
太宰権帥

 

兼家の後継者争い

権勢を誇った道長


f:id:gonikyuroku:20190613233327j:image藤原道長
しかし、彼は結構強引に物事を推し進めていたんですよ。

そもそも父・兼家が無理矢理花山天皇を退位させました。その後即位した一条天皇の摂政として兼家は権力を握るのですが、その死後、後継者争いが勃発します。

文字だけではとても分かりにくいので家系図を見て把握してください。


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まず兼家の子供ですが、長男・道隆と次男・道兼は病気によって亡くなります。4男の道長が生き残っています。続いて後の道長のライバルとなる道隆の子供たちです。伊周、隆家、定子がいます。定子が一条の皇后です。つまりこの時点で伊周勢が一歩有利だったのです。

そこで道長は攻勢に出ます。道長が実子の彰子を一条の中宮とします。(一帝二后の最初の例)ちなみに兼家の娘・詮子が2代前の円融の皇后となって一条の母となっています。そして詮子は道長の立場についています

ちょうどシーソーだったんですね。

花山法皇射殺未遂事件

伊周には愛人がいました。その人物を花山が横恋慕していると勘違いした伊周が隆家に相談したところ数名の部下を連れて花山の服の袖を弓で射抜いてしまいました。花山は恐ろしさのあまり黙っていたんですが、噂が広まるのは早いですよね。そんなわけで道長に情報が入り上手に利用、伊周・隆家兄弟を太宰府に左遷してしまいました。そうして道長に全ての権力が移ったのです。

一条天皇とその周辺


f:id:gonikyuroku:20190613233401j:image一条天皇

まず有名なのが定子に仕えた清少納言、彰子に仕えたのが紫式部ですね。また和泉式部たちもいました。こんな才女がいたからこそ国風文化が栄えたんですね。なお、一条は笛を嗜み、文化人として多くの人に慕われていたようです。

政治家では、道長を筆頭に藤原行成、公任、斉信、源俊賢の「四納言」と呼ばれた4人の秀才がいました。藤原公任は当代一の文化人で兼家も自分の息子たちは影すら踏めないと嘆くほどでした。(ちなみに道長はその中でも公任の頭を踏んでやる、と豪語していました。)

一条は道長とある程度仲良くしたようですが、三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し」という内容の書き付けが書いてあった遺品を見つけ、「藤原氏が世を乱しているのだ」と解釈した道長が燃やして捨てたという逸話が残っているので内心どう思っていたのやら…。

次回、三条天皇からです。