未来の日本史博士の時典

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藤原一族の野望#5 延喜の治

どうも未来の日本史博士です。

今回は鎌倉時代後醍醐天皇が称賛し、参考にした醍醐天皇の延喜の治についてです。普通は崩御した後に諡号(例えば神武や仁徳)を贈るのですが、(つまり在位中の天皇陛下今上天皇と呼ばれています)後醍醐は自分で諡号を決めていました。それくらい参考していたようです。前置きはこれくらいにして本題に移りましょう。

≪今回のキーパーソン≫

今回の時代の天皇 醍醐天皇 在位897年~930年
時の権力者 藤原時平
菅原道真
左大臣
右大臣
正一位太政大臣

 

 

醍醐天皇の出自


f:id:gonikyuroku:20190602055843j:image醍醐天皇

驚くなかれ。醍醐はもともと臣籍の人物でした。そもそも父・宇多天皇源定省という名前で臣籍でした。その臣籍時代に醍醐が生まれたのです。だから生まれから臣籍だったのです。源維城(これざね)という名前でした。父・宇多の皇族復帰に伴って維城も皇族に復帰して敦仁に改名しました。その後立太子した時に宇多から下賜されたのが壺切御剣です。以降天皇即位に受け継がれるのが三種の神器立太子の時に受け継がれるのが壺切御剣、という伝統が生まれました。

とにかく唯一生まれから臣籍だったのは醍醐だけなんです。

では事績について解説します。

菅原道真藤原時平


f:id:gonikyuroku:20190602055915j:image菅原道真百人一首では菅家)

醍醐治世下では時平を左大臣、道真を右大臣にして摂政関白を置かない政治を行いました。摂関をおかず、自ら政務を執ったので「延喜の治」と呼ばれます。ちなみに天皇自身が行う政治のことを親政と呼びます。

宇多が譲位した時に前回の記事に書いた藤原基経との確執のような出来事が今後起こらないように菅原道真を積極的に登用しました。でも、藤原一族は不満ですよね。そこで時平は行動を起こします。

昌泰の変

時平は道真が自分の娘婿であり、宇多の子・斉世(ときよ)親王(つまりは醍醐の弟)を立太子させようとしていると醍醐に讒言しました。そして即座に醍醐は道真を太宰権帥として左遷しました。この時に詠んだ「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という和歌はとても有名ですね。

本題に戻りましょう。道真の左遷を知った宇多上皇は内裏に向かったものの閉じられていて醍醐に面会することができず、道真の後ろ盾である宇多は何もできなかったわけです。

現在では醍醐陣営が宇多陣営の勢力を削ぐために宇多が信頼していて代弁者とみなされていた道真が左遷されたともいわれています。

天神様の誕生

死後、突然の病で政敵・時平が死去します。それに続いて道真を陥れた人物が亡くなっていきました。さらに930年(延長8年)に清涼殿に落雷し多数の死傷者が出る事態となりました。それを見た3か月後に醍醐も崩御しました。すると貴族たちが道真の祟りだと恐れ始めました。ついに朝廷は道真を赦して正一位太政大臣の位を与えました。ここには時平の弟であり、道真と仲が良かった忠平が関与していたともいわれています。

北野天満宮をはじめ各地で天神信仰が盛んになり勉学の神様となってたくさんの人々から信仰を集めています。


f:id:gonikyuroku:20190602060019j:image

醍醐の文化振興

以前紹介した六国史の一つ「日本三大実録」の編纂を命じ、かの有名な「古今和歌集」の編纂にも着手しました。さらに律令制基本法である「延喜格式」をまとめました。ちなみに在位中に道真の進言で遣唐使を停止(唐が滅んだため事実上の中止)して、時平は荘園整理令の整備に尽力していました。

まとめ

ここまで活発に行動をおこした天皇は歴代でも珍しいですね。だから後醍醐天皇も醍醐親政を見習ったんでしょうね。

次回以降も乞うご期待!