未来の日本史博士の時典

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承久の乱直前の一騒動


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どうも未来の日本史博士です。

ようやく即位関連の行事が一通り落ち着いたので天皇の歴史シリーズを進めていきたいと思います。

というわけで前回の後鳥羽院政に続く時代をピックアップしてしていきます。

ではさっそく始めます!

源実朝の在位中

前回に解説した通り、2代将軍・頼家北条政子以下御家人衆に更迭され、伊豆の修善寺に幽閉されてしまいました。その後は北条家を中心とした合議制が敷かれたようですがここでは割愛。そのまま頼家の弟・実朝が3代将軍に就任しました。


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実朝は政治に関与する機会が少なく、主に文化的な活動をしていました。例えば宋に行こうと船を建造したり、「金槐和歌集」なるものを編纂したり…。このおかげで文化人でもあった後鳥羽上皇後鳥羽自身も「新古今和歌集」を編纂しています)と友好的になり、公武融和に貢献していました。

鶴岡八幡宮暗殺事件

しかし、実朝が右大臣に就任したことの昇進祝いを鶴岡八幡宮にて行う機会があり、そこで悲劇が起こりました。


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あろうことか時の将軍が先代・頼家の息子の公暁に刺殺されたのです。


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ここで後鳥羽が動きます。そもそも実朝に子供がおらず、後鳥羽の皇子を次の将軍に据えようと考えていました。しかし、そんな物騒な場所に息子を送れない!と後鳥羽は踵を返したため一気に険悪ムードとなります。結局藤原摂関家から分裂した九条家より九条頼経を迎えました

(ちなみにですね、江戸時代の和宮降嫁のときもそうなんですが、親王格の皇子を東国に送り込んでしまうと皇位継承権を持っているため皇室が分裂しかねないという懸念もありました。そんなこんなで摂家将軍を迎えることになるんですが、もう少ししたら皇族将軍が登場するのでお楽しみに)

それはさておき、ある意味軍事を専門とする「公家」であった源氏将軍家を手中におさめようとしていた後鳥羽はその立場が北条一族に奪われたことを不満に感じ、前述の将軍後継者問題で火種がくすぶります。

後鳥羽は開戦止む無しという立場でしたが、土御門上皇や摂政・近衛家実らの公卿は大反対、順徳天皇は大賛成という立場をとっていました。

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何なら順徳に至っては皇位を自分の子に譲り、85代仲恭天皇として即位させました。順徳はフリーとなって討幕に全力をつぎ込みます。1221(承久3)年の事でした。

同じ年の5月に流鏑馬をするという名目で朝廷の支配が行き渡っていた西国の武士をかき集めました。

そして開戦の火蓋が切り落とされるのです。

次回、承久の乱!お楽しみに!