今こそ知りたい仏教の発展と聖武天皇の関わり
どうも未来の日本史博士です。
今回は教科書でも割と細かく掲載されている聖武天皇についてです。知らない人はいないと思いますが、できるだけ詳しく解説していきます。それでは早速行きましょう。
聖武天皇の即位の成り行き
聖武の父親の文武が若くして崩御し、祖母の元明、伯母の元正が中継ぎとなりようやく24歳になり元正からの譲位によってようやく即位しました。こうして聖武の誕生となりました。ここまでの成り行きの詳細は下のリンクからどうぞ。
長屋王の変
事の発端はこう。聖武の母・宮子に「大夫人」の称号を与えることにしました。ちなみに宮子は藤原不比等の娘で文武の皇后です。そして左大臣の長屋王が当時の規定に反するという理由で批判しました。ちなみに長屋王は天智、天武の孫なので藤原氏にとっては目の上のたんこぶみたいなもので一刻も早く排除したい存在でした。そのため、藤原四兄弟は長屋王に謀反の罪を着せて館を襲撃、自殺に追い込みました。藤原四兄弟は不比等の子供たちで、光明皇后の兄たちでもあります。
聖武が頼った仏教
聖武天皇といえば大仏とか、東大寺や国分寺のイメージが強いですよね。それは聖武が天変地異から日本を守ろうと仏教にすがったからです。その天変地異とは例えば藤原四兄弟を含め多くの人民が天然痘によって死んだ、とかです。そういう訳で諸国に国分寺、国分尼寺を建立したのです。最後に総仕上げに東大寺の建立に力を注いだんです。この東大寺は南都六宗(平城京で栄えた華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)の大本山でありとにかく総仕上げなのです。盧舎那仏(本尊の大仏)は743年に詔が出されて造営が始まりました。752年にインドから菩提僊那を招き開眼供養会を催しました。この時娘の安倍内親王に譲位して上皇になっていました。安倍内親王に関しては次回の記事で。
東大寺の大仏建立とその結果
見たら分かると思いますが、あんなバカでかい大仏をどうやって作ったのでしょうか?
あの大仏高さは15mと世界最大級ですからね。じゃあ作り方を教えます。
①木で枠組みを作って、粘土で原型を作る。
②原型に土を盛って中型を作り、隙間を空けて土を盛って外型を作り、中型と外型の間
に銅を流し込む。
③全ての行程を8回行って外型を外して完成!
こんな感じです。まあこれを知ったところで大したことはないんですが…。ちなみに大仏の上半身は戦災で焼失して再建されていますが、下半身は当時からのままで現存しています。でも結果はどうなったのか。これが大事です。仏教にすがって救いを求めるのはいつの時代でもそうですが、(ここから話すことは仏教を侮辱しているわけではありません)結局仏教の力に頼っても病気は治らないんですよね。そりゃそうでしょ、って感じですが…。大仏建立後は仏教による国家安寧を求めた聖武でしたが、大規模な工事によって財政は悪化して、さらに農民層にとってはとてもきつい負担で餓死する人が増えて真逆の結果、つまり社会情勢は悪化してしまったのです…。
聖武、謎の遷都
聖武天皇の事績の中で仏教関係の事柄に埋もれてあまり知られていないですが、何度も遷都を繰り返した天皇なんですよ。とりあえず成り行きでも語ることをいたしましょう。まず、740年に藤原広嗣の乱ってのが起こるんです。その最中に平城京を離れて伊勢や美濃まで行幸して山背国(今の京都府)の恭仁京や大阪府にあった難波京に遷都、そして近江国(今の滋賀県)の紫香楽宮の造営に乗り出します。でも紫香楽宮周辺で不審火や地震が相次いで発生して結局平城京に帰ります。ここまでで約5年の歳月を費やしました。一体、何故こんな奇妙なことをしたのでしょうか?軽く考察を書くので気が向いたら読んでみてください。
続く。