未来の日本史博士の時典

大メンテナンス中です。また、現在、新たなブログの改良を始めております。

MENU

かの有名な聖徳太子の実像に迫る!

どうも未来の日本史博士です。

今回こそ聖徳太子についてじっくり語っていきたいと思います。まずは基本的なことからいくつもりです。

ではいきましょう!

 

厩戸皇子の素性

え?厩戸皇子?誰?って思った方へ、前回の記事を見てください。厩戸皇子というのは聖徳太子の本名です。とりあえず今回は聖徳太子特集なのでそういったことも含めて語っていきます。先ほども言った通り厩戸皇子というのが本名で聖徳太子というのは諡(おくりな)です。また別名として豊聡耳皇子(とよとみみのみこと)というのもあります。古事記での呼び方はこっちですね。

では基本データを

厩戸皇子


f:id:gonikyuroku:20190319141131j:image

 別名 聖徳太子

 生没年 574~622(49歳病没)

 父親 用明天皇

 母親 穴穂部間人皇女

 蘇我稲目の孫、推古天皇の甥     

         ざっとこんなもんです。

じゃあ具体的に厩戸皇子の事績を見ていきましょう。有名なのは冠位十二階や憲法十七条の制定、遣隋使の派遣ですね。これらは後程一つずつ解説していきます。そもそもどうして太子が摂政になったのかからいきます。

聖徳太子が摂政になった理由

前回の記事でも紹介した内容ですが改めて書いておきます。上述の通り太子は用明の皇子なので皇族の一員です。つまり天皇になる資格(皇位継承権)があったんです。そしてその事績で有名なようにその実力は折り紙つきです。じゃあ太子が即位すれば良かったのでは…と思うかもしれませんが、その時代は年齢条件が優先される時代だったため結局、推古が即位されました。ですが推古は蘇我氏の権力を削ぎたいと思いつつ、推古自身も蘇我氏外戚だったため、争いは避けたいと思っていました。そこで推古は太子を摂政とすることで勢力バランスを保とうとしました。最終的に求めることは天皇中心の政治を理想でした。

さらにさらに、推古と太子は仏教を信仰することでも一致していました。仏教の教えは心を静める効果があり、(個人的な意見はさておき、いろんな考えがあるとは思いますが…)中央集権体制を敷くにはもってこいだったんですね。二人の意見が一致したのですから、太子は摂政になるべくしてなったのですね。

聖徳太子の事績

と、まあ、太子が摂政になった経緯を解説しましたが、事績について語っていきます。

なお天皇についてをメインに語るブログなので聖徳太子の事績は控えめにいきます。

 〈冠位十二階〉

これは中学校でもある程度詳しく習いましたよね。まあ、簡単に解説します。この制度は家柄ではなく個人の能力を尊重して登用するものです。ご存知の通り色によって位が決まるのでその件も紹介します。ちなみに蘇我氏は十二階より上の地位にいたため、紫冠をつけていました。皇族も特別な色の冠を持っていて、十ニ階より下の地位の人物も各々十二階とは別の色の冠を持っていたようでどこまで効果があったのか…まあ蘇我氏の冠の話とかは俗説だという研究もありますけどね。とりあえず一般的な十二階です。


f:id:gonikyuroku:20190319141258j:image

 憲法十七条〉

これは国の中心は天皇であることを公に示したものです。内容は有名なので一応書いておきます。 

f:id:gonikyuroku:20190319141428j:image
       

 〈遣隋使の派遣〉

「日出(いず)る処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや。」という親書を隋の皇帝・煬帝に送りつけたことで有名です。ちなみにこの親書を携えて隋に行ったのは小野妹子ですが、実際は二回目の遣隋使なんですよ。一回目はあまりうまくいかなかったようです。余談ですが小野妹子率いる第二弾遣隋使の返答の親書を持ってきた使者は裴世清という人物です。

聖徳太子の改革の成果

こうして従来の氏姓制度を脱して天皇を頂点とした朝廷の新しい序列を整備して優秀な人材を集めて支配体制を固めることに成功しました。そういう観点では「聖徳太子」という呼称は後世の作り話であると否定されがちですが、朝廷の体制を固めることに貢献したという点ではそう呼ばれるのにふさわしい人物だったと考えられますね。だからこそ紙幣の人物になり得た訳です。f:id:gonikyuroku:20190319141404j:image

 

以上、聖徳太子特集でした~。次回は舒明天皇以後の話です。乞うご期待!

 

読者登録もお願いします。