≪総集編≫承久の乱とは何ぞや?について解説
どうも未来の日本史博士です。
今回は数回に亘ってお伝えしてきた承久の乱と後鳥羽天皇らについてざっくりと解説していけたらと思います。
後鳥羽天皇の即位
より詳しい内容はこちらの記事から。
後鳥羽天皇の生涯は波乱に満ちたものでしたが、その即位も例外ではありませんでした。1183年に平家に持っていかれた三種の神器がないまま後白河法皇の令旨で即位し、その後は後白河と鎌足幕府を開いた源頼朝の政権の傀儡となるだけ。
多くの束縛から逃れたい後鳥羽は1198年に早々と息子を土御門天皇として即位させました。
1192年に後白河が1201年に頼朝が亡くなったため他に権力者がいなくなります。
源実朝と後鳥羽院政
後鳥羽自身は学問にも秀でていました。新古今和歌集の編纂を藤原定家に命じたのも後鳥羽です。
鎌倉幕府の3代将軍・源実朝も宋の文化や和歌に精通していたので後鳥羽が自らの皇子を将軍として送り込むことを約束するほど親密な関係となります。
しかし、実朝が鶴岡八幡宮で暗殺されると態度は一変。
一気に仲が悪くなり本格的に討幕に向かって傾き始めます。
承久の乱
後鳥羽・順徳(討幕を熱心に唱え退位して加担)側が京都にあった鎌倉幕府直属の機関を襲いました。後鳥羽は執権・北条義時追討の綸旨を出します。
後鳥羽は鎌倉幕府側がおとなしく降参するとたかを括っていましたが、その目論見は完全に外れました。
北条政子の演説も含めて一致団結した鎌倉武士団は一気に京都に侵攻、圧勝した挙句に後鳥羽・順徳らを島流しにしました。
承久の乱は誰のせい?
詳しくはこの記事を見てください。
82代後鳥羽、83代土御門、84代順徳、85代仲恭と彼らに追随、または迫害された公家が承久の乱が終わった後にどうなったのか、解説しています。
おおむね後鳥羽、加えて順徳が首謀とされています。
誰のせいというよりどうして鎌倉幕府側は勝つことができたのか、に重点をおいています。天皇に反抗するつもりはなく、後鳥羽側の侵攻から鎌倉を守るべく集結しただけだったのに…。後鳥羽側は西国の武士をかき集めたのに…。
詳しくは読んで頂ければ分かると思います。
まとめ
承久の乱は時代の流れで誕生した武士団の政権「幕府」と旧来の朝廷による初めての内戦です。だからこそ有名であり、謎がまだまだ残っています。後鳥羽に至っては幕府との融和、対立を経て承久の乱に踏み切っています。彼の心境がどう移り変わったのか、とても気になるところです。いつしか完全に解明されることを期待しましょう!