未来の日本史博士の時典

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知る人ぞ知る暗殺事件

どうも未来の日本史博士です。

今回は誰もがその名を知るであろう聖徳太子について解説します。

では、前回の続き、すなわち崇峻天皇から解説していこうと思います。

 

丁未の乱

そもそも崇峻天皇が即位するまでにいろいろあったんで、そこから書いていきます。

で、ことの発端は用明天皇崩御した後、物部守屋穴穂部皇子の擁立を図ったことから始まります。守屋は蘇我氏と血縁関係のない人物を擁立しようとしていたんですが、亡くなってしまったので仕方なく…という経緯で穴穂部皇子の擁立に至ります。

一方の蘇我氏はというと、後の推古天皇となる額田部皇女を擁立して全面対決となります。先手を打ったのは蘇我氏、(ある意味物部氏が軍を動かそうとして蘇我氏が行動を起こしたんですが)馬子が穴穂部皇子を殺害します。すでに両家は仏教の信仰をめぐって対立していたので戦争状態に突入していきます。ちなみに聖徳太子(本名・厩戸皇子)は蘇我氏側についていました。さあ、続きにいきましょう!


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物部守屋(引用:wikipedia

蘇我氏が泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)や厩戸皇子を味方に取り込んで、物部氏の拠点・渋川の館を襲います。ちなみに渋川は今の大阪府八尾市にあります。前回の記事を見ていただければ分かるはずなんですが、物部氏って軍事を司る大連という役職についていたんですから戦に関してはエキスパートなんですよ。なので言うまでもなく蘇我氏は苦戦し、たくさんの兵を失ってしまいます。餅は餅屋です。ここで活躍するのがこの後主人公になる厩戸皇子です。彼は霊木を用いて四天王像(仏教の守護神)を作り、戦勝を祈願するとあら不思議。馬子の部下の一人が大木によじ登っていた守屋を見つけて射殺、蘇我軍の勝利に終わりました。これを丁未(ていび)の乱といいます。


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丁未の乱を題材にした絵ですが、こんな立派な石垣や櫓はなかったでしょう)


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(ここでは厩戸皇子(つまりは聖徳太子)が守屋を討ち取ったことになっていますが実際は別の人物です。)

その後厩戸皇子は祈願時の約束通り、四天王像を祀るために四天王寺を建立しました。

どうでもいい話ですが、大阪の天王寺の名の由来は四天王寺からきているんですよ。天王寺という寺はありませんからね。

 

そんなこんなで泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位しました。

 

崇峻天皇


f:id:gonikyuroku:20190316172417j:image 崇峻天皇

崇峻天皇は即位しました。ですが、即位できたのは蘇我馬子のおかげなんですよ。(前述の通り)なので結局馬子が実権を握り、崇峻は不満を募らせて…事件は起こります。

ある日、崇峻に猪が献上されます。それを指して「猪の首を切るように、私の嫌いな者を切りたい」と漏らしたんです。さあ、「私の嫌いな者」って誰でしょう?

 

答え:蘇我馬子

あの流れでいくともう分かりますよね(笑)

続きにいきましょう!崇峻の言葉を伝え聞いた馬子は怒って部下の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて崇峻を暗殺させました。不思議なことですよ。なんでかって?答えて差し上げましょう。後で(笑)。またまた話はそれますが、暗殺された天皇は20代安康と32代崇峻だけです。

 

暗殺事件の謎

不思議なこと…何がおかしいか分かりますか?それは、崇峻暗殺後も朝廷内に動揺が見られないことです。そのあたりの話は書いていなかったので分からなくて当然です(笑)。馬子がその後も政界で活躍していることが不思議だと思った方、惜しいです。馬子は情報が漏れないように駒を暗殺して口封じをします。(諸説あって、駒が馬子の娘を奪ったからともいわれています。)だから情報は漏れていないんです。で、話を戻しますが、天皇の暗殺という国家の一大事でも同様しないというのはどうもおかしいですよね。だから専門家たちは考えました。皇族が関わっていたのではないか、と。当方も同様の意見でして、皇族や重臣の了解を得て実行したんだと思いますよ。

 

今回はとても長かったですが、お付き合いいただきありがとうございました。!「次回聖徳太子登場!」なんて何度も言っててようやく端っこを出せましたが、彼に関してはまだまだこれから語っていきます。次回はかの有名な女帝の登場からです。

デザイン編集も頑張っていきます。乞うご期待!

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