天皇も散骨?!淳和天皇の生涯
どうも未来の日本史博士です。
しばらく日を空けましたが、引き続き天皇の歴史について解説していきます。
さて、今回の話題は淳和天皇、そして彼自身が歴代で唯一散骨したという点です。とりあえず、軽く天皇の葬儀についてです。
天皇の葬儀
何を隠そう日本には古墳があります。まもなく世界遺産になるかどうかが決まりますが、それはさておき…天皇は崩御すると土葬されていたんですよね。持統天皇の頃から火葬に移り変わったんです。そして今では天皇の葬儀のことを「大喪の礼」と呼んでいます。どちらにせよ、膨大な費用がかかりますよね。ということを踏まえた上で淳和についてです。
淳和天皇
平城、嵯峨と同じく桓武の息子です。薬子の変のいざこざの中で高丘親王が廃位させられたので代わって立太子、即位しました。でも立太子に乗り気ではなく嵯峨の懇願でようやく立太子したとか。では軽く淳和の事績について解説していきます。そもそも民思いだったのか、ただの倹約志向だったのか、大嘗祭も簡略したようです。そして皇室財産を盤石なものにするために勅使田を設けました。公地公民なのにね。そして後世の研究者からすれば最もありがたい点である「令義解」の作成です。その他「日本後紀」や「経国集」も作成を命じているのですが、今回は「令義解」について解説していきます。そもそも「令義解」とは公式法令解釈書のことです。何より現代でこの書物が役に立つ理由は今はもう失われた「大宝律令」や「養老律令」の解説が書いてあるので現物がどのようなものだったかが分かるのです。これで研究が進歩するんですよね。
そして淳和が崩御するときにも大嘗祭の一件と同じく民のことを思ってか散骨するっいぇ言いだしたんですよ。という訳で京都の西院に散骨されましたとさ。