雄略天皇とは誰ぞや?を解説
どうも未来の日本史博士です。
今までの「何ぞや」ってネーミングにあやかって付けた題名ですが、強引過ぎたかもしれませんね。ところで、今回紹介するのは雄略天皇についてです。
稲荷山古墳から出土したワカタケル大王の刀剣で有名なので、中学校とかでも習った人も多いと思います。
前回の仁徳天皇の話からの続きも含めて解説していきます。
履中天皇から安康天皇
仁徳天皇の次に即位したのが17代・履中天皇です。皇位を簒奪しようとした弟を殺害して即位しました。宋書倭国伝にある倭の五王の「讃」だと言われています。ちなみに履中天皇陵は日本で3番目に大きいです。
その次に即位したのが18代・反正天皇。倭の五王の「珍」だとされていて、宋から「安東将軍」の称号を与えられていたとされています。
さらにその次に即位したのが19代・允恭天皇。倭の五王の「済」とされています。目立った事績は特になく、皇子の木梨軽皇子と皇女の軽大郎女(かるのおおのいらつめ)が禁忌である同じ母の兄妹が恋に落ちる話があるんですが、そのまま道後(今の愛媛県)に追い詰められて心中しました。
そのまた次に即位した20代・安康天皇が即位するところから雄略天皇に関する話が始まるのです。まずは木梨軽皇子を倒したのちに即位したんですが、今度は安康自身が臣下に騙されて殺害されたそうです。
暴君(?)雄略の登場
引用:wikipedia
で、真っ先に動いたのが安康の弟・大泊瀬若武命(おおはっせわかたけるのみこと)で
安康を殺害した眉輪命を殺害し、今後の対応を協議するために兄が煮え切らない態度をとったためにこちらも殺害、従兄弟も殺害して皇位を奪い取り、21代・雄略天皇として即位しました。
その後は聞いたことがあるかもしれないですが、ある意味典型的な暴君ぶりだったという。その一方で優れた手腕を発揮して養蚕を奨励し経済を発展させたようで、外交関係でも鉄をもとめて、はるばる朝鮮へ遠征軍を送ったそうな。伊勢神宮の外宮を建てたのも雄略です。ちなみに倭の五王の「武」は雄略だと言われています。また女性関係では優雅な恋物語の主人公として描かれています。
雄略が即位するときに殺害した市辺押歯皇子の子供たちにまた一つお話があるんです。
が、それに関してはまた次回以降に解説します。
では、また次回!