未来の日本史博士の時典

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祝!世界遺産登録・仁徳天皇陵古墳とは何ぞや?について大解剖!!

どうも未来の日本史博士です。

大阪に住む当方にとってはサミットが一段落着いたころにまた嬉しい話題がきてとてもウキウキしております。そんなわけで仁徳天皇陵について詳しく解説していきます。(この記事は以前書いた二つの記事の追記、再編集ver.です)

そもそも仁徳天皇とは?

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古代の天皇のなかでは割と有名な天皇ですね。何せ大阪を作った人物ですから。あれ?秀吉は?って人がいると思うので言っておきますが、仁徳は地形を作ったんです。淀川の流路を整備したりしています。詳しくは後述します。

昔の一円札になっていたり朝鮮に出兵した神功皇后の息子、応神天皇の第4皇子です。また倭の五王の一人ともいわれて朝鮮に出兵したり、中国に朝貢したり…アクティブだったんですね。

そして仁徳天皇は実在すると言われている最初の天皇の一人です。その証拠の一つとして高句麗地方に好太王碑文」があり、様々な事績は仁徳天皇の治世のことと考えられています。では一つ仁徳天皇の仁政をあらわすエピソードを紹介しましょう。

ある時宮殿から家々を見た仁徳は炊事の煙が上がっていないことに気付きました。その状況から民が苦しんでいることに気づいた仁徳は3年間課税を免除したそうな。そして宮殿が雨漏りするほどまで仁徳自らも倹約に努めたという。「仁徳」という諡号はこの仁政からきています。いろんな政治をした天皇の中でも敢えてこの天皇に「仁徳」という名前が付けられたのですから、それだけの素晴らしい仁政だったのだろうと思われます。その他にも、例えば、水害を防ぐ日本最古の堤防・茨田堤や、屯倉(朝廷直属の穀物貯蔵庫)を築いたこととかかな。調べてみたところ、寝屋川市にあるようで、石碑が建っています。また灌漑用の池をつくったり、入江や港も造らせたりしました。

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(実際に現地に赴いて写真を撮ってきました。)

ではそこまで「神」といった感じだったんでしょうか?

その質問にはこう答えましょう。浮気をしていたんです。人間らしさがあふれていますよね。日本書紀に皇后には磐之媛命がいたんですが、磐之媛命が和歌山の方に旅に出ているすきに仁徳が異母妹を宮殿に招き入れ、妃にしたんですが、それが発覚して怒った磐之媛命は別の宮にこもって仁徳は許しを乞いに出向いたというエピソードがあります。

 

仁徳天皇陵古墳の概要

百舌鳥古墳群の1つ。全国で最も大きな古墳です。面積は濠を含めて約47万平方メートル(甲子園球場12個分)、一日2000人のべ680万人が働いても15年は軽く超えます。正式名称は百舌鳥耳原中陵(もずみみはらのなかのみささぎ)です。明治時代の発掘調査から埋葬されている石棺の形は亀の甲羅のような形をしているそう。石棺の蓋は幅約1.5メートル、長さ約2.5メートル、高さ約1.5メートルほどと推測されています。石棺を覆う石室について、長さは東西に約4メートル、南北に約2.5メートルで、20〜30センチメートルの丸石(自然石)を積んで作られていて、大石3枚でおおわれていたようです。また、石室と石棺よ間から甲冑、ガラスの杯、太刀の金具、鉄刀20本ほどが出土し、堤(濠の外側の部分)から出土埴輪や須恵器から5世紀中頃の築造と考えられています。

仁徳天皇陵アクセス

所在地 大阪府堺市堺区大仙町7

最寄り駅 JR三国ヶ丘駅(駅から徒歩約10分ほどで現地)

もちろん年中無休です。

仁徳天皇陵の写真

正面の拝所

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すぐ横に宮内庁の管理所がありました。
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横から見た仁徳陵f:id:gonikyuroku:20190327143138j:image

堺市役所21階の展望台からみた仁徳陵(写真中央)
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展望階にあった空撮写真(写真右上)
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明治時代の発掘

一度明治時代に堀が崩れたらしくその時に立ち入りがあったそうなんです。その時に甲冑が出土したそうで、仁徳陵の隣にある博物館でレプリカを見ることができます。現物はというと発掘された後、絵に写してそのまま埋めたのだとか。盗掘されていなければまだ眠っているそうです。ちなみに発掘場所はここ。米・ボストン美術館にも仁徳陵から出土したといわれている銅鏡などが保存されているそうです。

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宮内庁堺市の共同調査

では本題にいきましょう。

まずは調査された地点です。

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(イメージ)

何故、内側にはなかったのでしょう?先程の資料ではこのように考察しています。

このことについて、現段階では以下の3通りが推測される。

築造当初から埴輪列が存在しなかった。

②波浪の浸食などにより堤が崩落した際に埴輪列も失われた。

③並べられた埴輪の間隔が広く、今回設定したトレンチの幅では埴輪列が確認できなかった。(同上)

識者の方ではこのように考察したそうですね。今後の調査に期待しましょう。

もう一つ仁徳天皇陵に石が敷かれていたという点についてお話しします。普通、古墳の斜面部分に崩落を防ぐ目的で石を半ば埋め込む形で敷きますが、今回の調査で堤の表面にも石が敷かれていたことがわかりました。より豪華に見えるように作ったんでしょうね。ちなみに石敷きと同一面に埴輪列があるので築造当初の遺構と考えられています。

 

世界遺産に登録されたもののどうやって観光資源にするのか、まだまだ未知数な部分も多いです。(大仙公園に展望塔はありますが...)

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ときたま「何もない」と言われていますが、とても素晴らしい歴史的価値の高い遺産です。ただ周囲から見ても森のようにしか見えないのも事実です。

とにかく今後の対応について楽しみにしておきましょう!