聖武天皇は何がしたかったのか?について考察
どうも未来の日本史博士です。
今回は聖武天皇の謎の遷都の考察と、聖武の治世下の天平文化についてです。この記事を読む方はぜひ前回の記事を読んでからこちらに舞い戻ってください。以下リンクからどうぞ。
聖武天皇の謎の遷都についての考察
あの遷都にどんな意味があったのか。副題をつけるならばこんな感じですね。早速考察していきます。今回当方が挙げる考察は以下の通りです。
①人民の寄付などから大仏を造営する資金を得ようとした場合
②天変地異から逃れようとした場合
では順番に考察を述べていきます。
①の場合の前提ですが、豪族たちに資金を出させる方式での造営方式が執られました。しかも国家の事業としてではなく、個人の自発的な寄付、寄進、献身を主体としています。そうするには政治機能の持った平城京は邪魔なんですよね。政教分離ってやつですよ。そこで紫香楽を拠点として、また恭仁を中継基地として造営していく。でも全てがそんな上手くいくはずはなく、想定通り紫香楽造営計画は頓挫。で、平城京で造営するという計画が持ち上がり結局平城京での造営になる、こんな感じの流れです。
②の場合、この当時は藤原四兄弟が天然痘で亡くなるくらいに人々にも伝染しています。しかも調べたところ、聖武治世下には734年畿内七道地震、745年天平地震(これを機に難波京から平城京へ帰還)などたくさんの天変地異が発生して、それを避けるために遷都したと思われます。
③の場合の考察。果たして聖武の敵となる人物がいたのでしょうか、ということについて調べてみました。でもやっぱりその時代に作られた書物は天皇の命で作られたものが多いので天皇の政敵なんぞを記していないと思うんですよね。いろいろ読んでみたんですが、やはり見つからないんですよね~。という訳でこの案はちょっと考えにくいですよね。
とかくまぁ、①、②の考察が正しいのかと思われ、これがつまり史実になるってことですね。
今回は遷都について考えました。あの時代はいろいろあったんですね~。まだまだ謎も多いので歴史はとても面白いんです!