未来の日本史博士の時典

日本史オタクが歴史を語る。アニメ、スター・ウォーズなんかも好きなんで時々綴ります

鳥羽上皇と院政の確立期

どうも未来の日本史博士です。

今回は前回に引き続き白河上皇院政について、そして鳥羽天皇について解説します。前回の記事の最後の方に鳥羽天皇白河上皇の豹変について書きましたが、その辺りからじっくり語っていこうと思います。

さて前回の記事はこちらから。

では早速始めましょう!

鳥羽天皇の即位


f:id:gonikyuroku:20190716180255j:image鳥羽天皇

突如崩御した堀河天皇に代わって74代の鳥羽天皇が即位しました。でも即位している間は全ての実権を白河上皇に握られていました人事権を乗っ取り、院近臣や北面の武士と呼ばれる人々を自分の周りにつけて専制政治を行った白河を前にして若年の鳥羽は為す術もなく院政が本格化していきます。堀河治世下ではまだ摂関家に力はあったのですが、鳥羽治世下の摂政関白・藤原忠実は未熟が故に白河と論争になり警戒されて罷免されるという事態に発展するほど仲が悪くなり、白河に対抗するどころじゃなかったんです。鳥羽も何もできないまま息子の崇徳天皇に譲位させられています。

f:id:gonikyuroku:20190716180325j:image崇徳天皇
ちなみに崇徳の母は白河の愛人なので鳥羽は「叔父子」と呼んで冷遇したとか。この行為が後々大問題を引き起こします。

鳥羽が完全に無力の状態は1129年に白河が77歳で崩御することで終わりを迎えます。

鳥羽、悲願の政務履行

ここから白河と同様に28年もの鳥羽の院政が続くことになります。まず白河院政への反発から白河に罷免された藤原忠実を関白に復帰させて、崇徳を前述の通り疎んで1141年には退位させています。そして崇徳を産んだ待賢門院璋子に代わって美福門院得子を寵愛しました(美福門院が生んだ子が崇徳の次の近衛天皇)。同様に白河の院近臣を排除して自らの側近で固めます。この中にふるわなかった源氏に代わって西国で大活躍した平忠盛(清盛の父)の昇殿を認可しています。

鳥羽の出家と専制

近衛天皇を即位させた翌年(1142年)、鳥羽は東大寺にて出家します。その後近衛は藤原摂関家や皇室の後継者争いに板挟みになったまま1155年に17歳の若さで崩御します。

そうするとまたまた後継者争いが起こり崇徳上皇院政をされたくなかった美福門院の訴えが認められて崇徳の弟・雅仁親王後白河天皇として即位しました。大天狗の登場です。

ここで崇徳と鳥羽の対立が起こるのですが、ここからは次回へお預けですね。

という訳で次回かの有名な保元・平治の乱についてです。

 

 

 

 

 

 

祝!世界遺産登録・仁徳天皇陵古墳とは何ぞや?について大解剖!!

どうも未来の日本史博士です。

大阪に住む当方にとってはサミットが一段落着いたころにまた嬉しい話題がきてとてもウキウキしております。そんなわけで仁徳天皇陵について詳しく解説していきます。(この記事は以前書いた二つの記事の追記、再編集ver.です)

 

そもそも仁徳天皇とは?

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古代の天皇のなかでは割と有名な天皇ですね。何せ大阪を作った人物ですから。あれ?秀吉は?って人がいると思うので言っておきますが、仁徳は地形を作ったんです。淀川の流路を整備したりしています。詳しくは後述します。

昔の一円札になっていたり朝鮮に出兵した神功皇后の息子、応神天皇の第4皇子です。また倭の五王の一人ともいわれて朝鮮に出兵したり、中国に朝貢したり…アクティブだったんですね。

そして仁徳天皇は実在すると言われている最初の天皇の一人です。その証拠の一つとして高句麗地方に好太王碑文」があり、様々な事績は仁徳天皇の治世のことと考えられています。では一つ仁徳天皇の仁政をあらわすエピソードを紹介しましょう。

ある時宮殿から家々を見た仁徳は炊事の煙が上がっていないことに気付きました。その状況から民が苦しんでいることに気づいた仁徳は3年間課税を免除したそうな。そして宮殿が雨漏りするほどまで仁徳自らも倹約に努めたという。「仁徳」という諡号はこの仁政からきています。いろんな政治をした天皇の中でも敢えてこの天皇に「仁徳」という名前が付けられたのですから、それだけの素晴らしい仁政だったのだろうと思われます。その他にも、例えば、水害を防ぐ日本最古の堤防・茨田堤や、屯倉(朝廷直属の穀物貯蔵庫)を築いたこととかかな。調べてみたところ、寝屋川市にあるようで、石碑が建っています。また灌漑用の池をつくったり、入江や港も造らせたりしました。

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(実際に現地に赴いて写真を撮ってきました。)

ではそこまで「神」といった感じだったんでしょうか?

その質問にはこう答えましょう。浮気をしていたんです。人間らしさがあふれていますよね。日本書紀に皇后には磐之媛命がいたんですが、磐之媛命が和歌山の方に旅に出ているすきに仁徳が異母妹を宮殿に招き入れ、妃にしたんですが、それが発覚して怒った磐之媛命は別の宮にこもって仁徳は許しを乞いに出向いたというエピソードがあります。

 

仁徳天皇陵古墳の概要

百舌鳥古墳群の1つ。全国で最も大きな古墳です。面積は濠を含めて約47万平方メートル(甲子園球場12個分)、一日2000人のべ680万人が働いても15年は軽く超えます。正式名称は百舌鳥耳原中陵(もずみみはらのなかのみささぎ)です。明治時代の発掘調査から埋葬されている石棺の形は亀の甲羅のような形をしているそう。石棺の蓋は幅約1.5メートル、長さ約2.5メートル、高さ約1.5メートルほどと推測されています。石棺を覆う石室について、長さは東西に約4メートル、南北に約2.5メートルで、20〜30センチメートルの丸石(自然石)を積んで作られていて、大石3枚でおおわれていたようです。また、石室と石棺よ間から甲冑、ガラスの杯、太刀の金具、鉄刀20本ほどが出土し、堤(濠の外側の部分)から出土埴輪や須恵器から5世紀中頃の築造と考えられています。

仁徳天皇陵アクセス

所在地 大阪府堺市堺区大仙町7

最寄り駅 JR三国ヶ丘駅(駅から徒歩約10分ほどで現地)

もちろん年中無休です。

仁徳天皇陵の写真

正面の拝所

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すぐ横に宮内庁の管理所がありました。
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横から見た仁徳陵f:id:gonikyuroku:20190327143138j:image

堺市役所21階の展望台からみた仁徳陵(写真中央)
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展望階にあった空撮写真(写真右上)
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明治時代の発掘

一度明治時代に堀が崩れたらしくその時に立ち入りがあったそうなんです。その時に甲冑が出土したそうで、仁徳陵の隣にある博物館でレプリカを見ることができます。現物はというと発掘された後、絵に写してそのまま埋めたのだとか。盗掘されていなければまだ眠っているそうです。ちなみに発掘場所はここ。米・ボストン美術館にも仁徳陵から出土したといわれている銅鏡などが保存されているそうです。

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宮内庁堺市の共同調査

では本題にいきましょう。

まずは調査された地点です。

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(イメージ)

何故、内側にはなかったのでしょう?先程の資料ではこのように考察しています。

このことについて、現段階では以下の3通りが推測される。

築造当初から埴輪列が存在しなかった。

②波浪の浸食などにより堤が崩落した際に埴輪列も失われた。

③並べられた埴輪の間隔が広く、今回設定したトレンチの幅では埴輪列が確認できなかった。(同上)

識者の方ではこのように考察したそうですね。今後の調査に期待しましょう。

もう一つ仁徳天皇陵に石が敷かれていたという点についてお話しします。普通、古墳の斜面部分に崩落を防ぐ目的で石を半ば埋め込む形で敷きますが、今回の調査で堤の表面にも石が敷かれていたことがわかりました。より豪華に見えるように作ったんでしょうね。ちなみに石敷きと同一面に埴輪列があるので築造当初の遺構と考えられています。

 

世界遺産に登録されたもののどうやって観光資源にするのか、まだまだ未知数な部分も多いです。(大仙公園に展望塔はありますが...)

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ときたま「何もない」と言われていますが、とても素晴らしい歴史的価値の高い遺産です。ただ周囲から見ても森のようにしか見えないのも事実です。

とにかく今後の対応について楽しみにしておきましょう!

 

 

りんくう公園から関空眺めてみた!

どうも未来の日本史博士です。

以前からG20についていろいろ話を聞いたり、ニュースを見たりすることが多いんですが、各国首脳が伊丹空港関西国際空港に到着するという情報をニュースで見ていたので6/27にりんくうタウンに向かい遠目で関空を眺めていました。f:id:gonikyuroku:20190706074954j:image
あいにくの雨で中国の習近平氏の到着が見られなかったんですがいくつかの国の飛行機や海保、警察の船舶、ヘリが見られたので写真と共に紹介します。

サミット参加国の専用機


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この日雨でとても視界が悪かったんですよねー。でも分かりますよね?トルコです。


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こちらがエジプトです。


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セネガルG20のメンバーに入ってはいませんが招待国としての来日となりました。

今回まだ状態が良かったのが以上の3カ国です。そもそもアメリカとかは伊丹なんで会えなかったですねー。

海上保安庁・警察


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あぁ、かっこいい!こちらおそらく関空に元々駐屯している「MHスーパービューマ225(みみずく)」ですかね?中国が来日したであろう頃に何度も何度も旋回していました。


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しっかりと船舶も警備していました。関空に何十台か出動させたらしいんですが、当方が見ることが出来たのはこの1隻だけです。


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大阪の警察かと思いきや、福井県警ってボディに書いてあるんですよ。全国から警察が集合しているんだろうなーって分かりますね。

(ついでに)周辺の警備


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多数の警察車両とバリケード、使用禁止のゴミ箱。サミット感が如実に現れていますね。

院政の黎明期~白河天皇の治世~

どうも未来の日本史博士です。

今回は幕末まで続く院政を始めた白河天皇の治世についてです。天皇の中でも数々の逸話を残した白河は面白い人生を歩んでいるのでとにかく始めましょう!

 

譲位まで


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白河天皇

先代の後三条に譲位されて20歳で即位しました。父である後三条の遺志を継いで荘園整理、そして藤原氏の勢力を削ぐことに力を尽くしました。なので藤原教通・信長親子とは何度も対立しました。

じゃあどうして譲位しようと考えたのか?というのが一つの本題です。

それは、白河の女性関係が関連しています。白河の中宮には摂関家の養女である賢子を寵愛しました。賢子との間には善仁親王という子がいました。その子の即位によって摂関家の権力の再興を恐れた後三条、反摂関家派の貴族が善仁親王の即位に反対して白河の弟を皇太子に指名しました。

が、しかし、転機が訪れます。皇太子の人物が薨去したのです。もう一人弟がいたんですが、そっちのけですかさず善仁親王を皇太子にして、そのまま即位しました。先ほどの皇太子だった人物が薨去する前年に愛する妻・賢子を亡くしていることもあってどうしても自分の息子を即位させたかったようです。ちなみに賢子が亡くなった時にその遺体を抱いて離さなかったと言われています。

院政の開始

先述の通り院政を始めることが目的で譲位したわけではなかったんですね。でも善仁親王堀河天皇として即位したのはたったの8歳!さすがに政務を執れません。だから後見人に自らがなることで摂関家を抑え、亡き愛妻の子を見守り続けたんです。

 

院政によって摂関家が衰えたというのが教科書に書いてある一般的な論ですよね。でももともと白河は摂関家と仲良くやっていたんですよ。藤原頼通の息子・師実とも協調しており、成人した堀河と師通(師実の息子)が親政をしようとしていた時があったんですが、なんと成功しています。白河は黙認していたのです。

f:id:gonikyuroku:20190704201747j:image(藤原摂関家系図

が、しかし、堀河が29歳で崩御した後、白河が豹変します。師通が亡くなりその息子・忠実が若くして摂関家の当主になり、堀河の孫の鳥羽天皇が即位し、ガラッと情勢は変わりました。周りに政治権力をもった人がおらず完全に実権を掌握しました。人事権を乗っ取り、院近臣や北面の武士と呼ばれる人々を自分の周りにつけて専制政治を行いました。そして立太子や譲位、関白の職権停止なども操りました。

 

白河上皇については書きたいことも多いので次回に続けます。

何故藤原家は衰退したのか?

どうも未来の日本史博士です。

今回はどうして藤原摂関家は衰退したのか?について解説していきます。前回の記事で読んでいただけば分かるように後三条天皇の即位に伴い、徐々に衰えていくことが分かりますよね。今回はどうしてこうなったのかじっくり解説していきます。

前回の記事についてはこちらから。

gonikyuroku.hatenablog.com

頼通VS教通

そもそも藤原氏の中で一騒動あったんです。後朱雀天皇の治世下で教通が頼通ら藤原一族の反対を押し切って娘を入内させたり、頼通が関白を務めている間に膝をつけて礼をさせられたりと忍耐もすさまじいものでした。そして彼らの父・道長の遺言で頼通が教通に藤氏長者藤原氏の棟梁の座)を譲らざるを得ず、その次の藤氏長者をそれぞれ自分の息子に継がせたい頼通、教通兄弟の確執は確実なものとなりました。

二つの勢力に分裂してしまった挙句、後三条に付け込まれて弱体化しました。

また藤原氏に不満を持っていた大江匡房中流貴族を後三条が重用したので摂関家の出る幕が無くなりました。

Oe no Masafusa.jpg

大江匡房

外戚になれなかった頼通・教通

先代後冷泉に頼通から藤原寛子が入内したものの皇子は生まれず、教通から歓子が入内して皇子が産まれたもののその日のうちに亡くなってしまいます道長後一条天皇などのように孫を天皇にして実権を握っていました。この方法ができず、仕方なく後三条天皇の即位に至りました

延久の荘園整理令

後三条天皇

今まで荘園整理令を出した天皇は数多くいたものの藤原摂関家道長、頼通)らに遠慮して結局何も変わらなかったのです。「不輸不入の権」を行使して藤原氏の荘園から税は取れませんでした。藤原氏はこれを利用して財産を蓄えていたのです。じゃあどうして簡単に藤原氏の荘園に手を出すことができたのか?先に言っておきますと「藤原氏外戚ではないから遠慮がいらなかった」なんて言われますが藤原氏とのつながりは多少はあるので以前の天皇よりは行動しやすかっただけです。

それよりも藤原教通が仲の悪かった兄・頼通の所領を減らせると考え、許可してしまったのです。それもあって荘園の整理が進み衰退に向かっていったのです。

まとめ

藤原氏の衰退は大きく分けて3つ

藤原氏の中での騒動

・頼通、教通の娘が皇子を産めなかった

・荘園整理令

いろんな要因が重なって藤原氏の衰退、次回以降解説する院政につながっていくのです。

 

次回は白河天皇の治世についてです。

 

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摂関政治の崩壊の始まり

どうも未来の日本史博士です。

今回は藤原氏による摂関政治が崩壊する最初の段階の時代を解説します。

20数年越しの即位


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藤原頼通と弟・教通は後冷泉天皇に娘を入内させたもののどうも子供が生まれることがなく仕方なく先代後朱雀天皇道長と仲の悪かった三条天皇の娘である禎子内親王との子・尊仁親王東宮に立てたものの頼通は認めようとせず、雲行きが怪しかったのです。

しかし、後冷泉が亡くなると一気に形成が逆転し、尊仁が後三条天皇として即位します。「170年ぶりに藤原氏外戚としない天皇の即位」なんて言われますが、曾祖父が道長なので縁がないわけではありません

摂関家を気にもとめない行動

摂関家がなぜ発展できたのか?もちろん運や政敵を排除できたことも大きかったですが、なによりも所有する荘園が多く存在していたことが重要になってきます。やっぱり税収が多いとおのずと発展しますよね。それを抑えるべく後三条は荘園整理令を発令します。この功績が後世評価され教科書にも載るほどになります。記録荘園券契所を設置してたとえ摂関家の所有している土地だとしても否応なしに、徹底的に整理して弱体化、土地利用の正常化を図りました。また身分にとらわれず中流貴族を登用したり、度量衡を整備して「宣旨枡」なるものを作ったりしました。その他たくさんの経済策を実行しました。

後継者選び

後三条には二人の皇后がいました。一人は源基子です。苗字の通り藤原氏とは何の関わりがなく、生まれた子供を立太子させましたが15歳でなくなってしまいます。もう一人が藤原茂子です。またもや藤原氏か?と思うかもしれませんが、茂子は藤原摂関家の支流の閑院流(後の三条、西園寺、徳大寺家の祖)出身の人物でして摂関家との直接の関わりはなく、茂子との子が次の天皇・白河となります

白河天皇についての内容は次々回に解説します。

次回は「なぜ摂関家が衰えたのか?」について考察していきます。乞うご期待!

 

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藤原一族の野望#11 摂関政治の最高潮②

どうも未来の日本史博士です。

今回は道長、頼通親子の全盛期の摂関政治体制についてです。

≪今回の時代のキーパーソン≫

今回の時代の天皇 後一条天皇
後朱雀天皇
後冷泉天皇
在位1016年~1036年
在位1036年~1045年
在位1045年~1068年
時の権力者 藤原道長
藤原頼通
摂政太政大臣・准三宮
摂政関白太政大臣・准三宮

 

後一条天皇

道長には極めて従順な天皇でした。そりゃそうなんですけどね。道長に逆らえるわけがないですよね。だって即位した時の年齢が9歳ですよ!

道長の娘(後一条の叔母)威子を迎え(一条の皇后・彰子、三条の皇后・姸子を含め)「一家立三后」を実現させて祝いの席で有名な句「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という句を詠んでいます

 後一条が即位したと同時に道長は摂政に就任しましたが翌年に26歳の頼通に譲り太政大臣として実権を握り、その後は頼通は関白として権力を振りかざしました

道長の晩年はとにかく荘厳な法成寺を建築しそこで亡くなりました。

この時代で最も大きな事件は「刀伊の入寇」ですかね。海賊(女真族)が九州北部を荒らしまわったという事件です。ここで活躍したのが花山法皇に矢を放って左遷された太宰権帥・藤原隆家です。九州の豪族を率いて撃退を成功させたことに朝廷からの褒美がないとして訴えてきたことに対して道長側と実資(中立を貫き三条天皇の支援をした)側で論争が起こりました。結果実資の意見が通り道長側も寝返って褒賞を与えました。

後一条は威子を娶ったものの子宝に恵まれず、29歳の若さで崩御しました。

後朱雀天皇

三条の息子に位を譲るという取り決めを交わして敦明親王東宮に立てましたが道長の圧力に屈して辞任した、っていう話を前記事で書きましたよね。

その後任として東宮に立てられたのが後一条の弟・敦良親王です。後一条の崩御と同時に後朱雀天皇として即位しました。本人は厳格な性格だったようですが実権は頼通が握っていてまたしても傀儡のような存在でした。後朱雀には道長の娘・喜子を入内させて皇后になり息子・親仁親王を生んだものの、産後の肥立ちが悪く2日後に亡くなりました。もう一人、後朱雀に入内したのが三条と姸子の子・禎子内親王です。禎子は後に後三条天皇となる尊仁親王を生んで皇后になっています

この時代、比叡山延暦寺の開設者最澄の弟子・円仁と円珍が喧嘩して京都にまで影響が及びました。後朱雀の治世の中でも僧徒同士で争って騒動が乱発し訴状を出す、なんていう事件が起こり頼通に至っては自分の邸宅を焼かれています。

世が荒れたのが自分のせいだと考えていた後朱雀は疱瘡に罹ってしまいました。後朱雀と頼通の関係が悪化していたので頼通の異母弟能信と共謀して尊仁親王東宮に立てるように頼んで崩御しました。残念ながら後朱雀の後見は頼通が決めて尊仁は避けられました。

後冷泉天皇

結局親仁親王が即位したものの摂関政治の全盛中の全盛時代だったため言いなりになるしかなかったんです。そのため蹴鞠や管弦楽、和歌に没頭して朝廷や政治に関わろうとしませんでした道長の息子頼通と教通(頼通と同母弟、前述の能信とは異母弟)が娘を入内させ、もともといた中宮を含めて三人の皇后を並列していました。この三后立」という状況は後冷泉が史上唯一です。

前九年の役って知っていますか?1051年、つまり後冷泉の治世下に起こった戦乱です。源頼義安倍頼良を討伐したものです。事後、源頼義は安倍頼義の甥の宗任を連れて伊予に転出したようです。で、「安倍」って言葉に引っかからないですか?なんとこの宗任の子孫が今の首相・安倍晋三だと言われています。

この戦乱を含めて世の中が荒れ始め、末法思想が広がっていきます。同時に浄土信仰も広がって平等院鳳凰堂を代表する国風文化が完成するのです。

後冷泉は晩年に頼通の別荘だった平等院行幸した後に病気になり、翌年崩御しました。

次回後三条天皇の即位と摂関政治の崩壊についてです。

 

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藤原一族の野望#10 藤原道長と三条天皇の確執

どうも未来の日本史博士です。

今回は失明寸前の病に陥ってしまう三条天皇と孫の敦成親王の擁立をしたい道長の対立について解説します。

≪今回の時代のキーパーソン≫

今回の時代の天皇 三条天皇 在位1011年~1016年
時の権力者 藤原道長
藤原実資
准摂政
権大納言・右大将

 

 

中継ぎポジションの天皇

一条から譲位されて即位したのが、今回の主人公の三条になります。でも即位したころはすでに道長の全盛期。しかも孫を即位させようとしていました。三条は息子の敦明親王を即位させようとしていたので対立を繰り返したんですよ。

三条即位の儀式の時ですら道長に遠慮してほとんどの公卿が参列しなかったというだけあって相当寂しい思いをしたことでしょう。

緑内障に蝕まれる

2人は対立を繰り返して政務は滞ります。道長有利の中、頼れる人物が藤原実資藤原実資は「小右記」という日記の作者として有名で、歴史的価値が道長の「御堂関白記」よりも高いとされています。)くらいしかおらず困り果てた三条にさらなる試練が襲いかかります。

それは緑内障。現代の人でもなかなか治りにくい病気ですよね。いろんな薬を試したようです。例えば水銀系の薬といった危険性の高い(副作用があるであろう)薬を服用していたようです。

それでも治る見込みはなく、悪化の一途を辿るだけになります。しかも道長は難癖をつけて身内を昇進させたり、三条主催の儀式に敢えて自分の宴会を重ねて妨害したりと攻撃し続けます。

もちろんそのうち圧力に屈して道長に政治の全権を譲りますが、尚も道長は執拗に迫り続けます

無念の親子

結果失明寸前の三条は政務が滞ることを理由に譲位しました。この時の条件が息子の敦成親王東宮(皇太子)に立てること。どうしても即位させたかったようです。

退位するときに心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな」という歌を詠みこれが百人一首に収録されています。

三条の後任として後一条天皇が即位した後、道長は約束通り敦成親王東宮に立てます。でも道長の親戚でない敦成は徐々に居場所をなくしていきます。後ろ盾も無かった敦成は父同様圧力に屈し東宮を辞退しました。とはいえそれなりに優遇したようで准太上天皇小一条院)の位を宣下して娘の寛子を与えています。

そして後一条の弟・敦良親王東宮に立て道長の思惑通り進んでいくのです。

次回、後一条天皇についてからです。乞うご期待!

 

藤原一族の野望#9 摂関政治の最高潮①

どうも未来の日本史博士です。

今回解説する時代は藤原道長が実権を握った最盛期の時代です。

前文で特記することはないのでさっさと解説に移りましょう。

≪今回のキーパーソン≫

今回の時代の天皇 66代一条天皇 在位986年~1011年
時の権力者 藤原兼家
藤原道長
藤原伊周
摂政
内覧(関白の実質の役職)
太宰権帥

 

兼家の後継者争い

権勢を誇った道長


f:id:gonikyuroku:20190613233327j:image藤原道長
しかし、彼は結構強引に物事を推し進めていたんですよ。

そもそも父・兼家が無理矢理花山天皇を退位させました。その後即位した一条天皇の摂政として兼家は権力を握るのですが、その死後、後継者争いが勃発します。

文字だけではとても分かりにくいので家系図を見て把握してください。


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まず兼家の子供ですが、長男・道隆と次男・道兼は病気によって亡くなります。4男の道長が生き残っています。続いて後の道長のライバルとなる道隆の子供たちです。伊周、隆家、定子がいます。定子が一条の皇后です。つまりこの時点で伊周勢が一歩有利だったのです。

そこで道長は攻勢に出ます。道長が実子の彰子を一条の中宮とします。(一帝二后の最初の例)ちなみに兼家の娘・詮子が2代前の円融の皇后となって一条の母となっています。そして詮子は道長の立場についています

ちょうどシーソーだったんですね。

花山法皇射殺未遂事件

伊周には愛人がいました。その人物を花山が横恋慕していると勘違いした伊周が隆家に相談したところ数名の部下を連れて花山の服の袖を弓で射抜いてしまいました。花山は恐ろしさのあまり黙っていたんですが、噂が広まるのは早いですよね。そんなわけで道長に情報が入り上手に利用、伊周・隆家兄弟を太宰府に左遷してしまいました。そうして道長に全ての権力が移ったのです。

一条天皇とその周辺


f:id:gonikyuroku:20190613233401j:image一条天皇

まず有名なのが定子に仕えた清少納言、彰子に仕えたのが紫式部ですね。また和泉式部たちもいました。こんな才女がいたからこそ国風文化が栄えたんですね。なお、一条は笛を嗜み、文化人として多くの人に慕われていたようです。

政治家では、道長を筆頭に藤原行成、公任、斉信、源俊賢の「四納言」と呼ばれた4人の秀才がいました。藤原公任は当代一の文化人で兼家も自分の息子たちは影すら踏めないと嘆くほどでした。(ちなみに道長はその中でも公任の頭を踏んでやる、と豪語していました。)

一条は道長とある程度仲良くしたようですが、三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し」という内容の書き付けが書いてあった遺品を見つけ、「藤原氏が世を乱しているのだ」と解釈した道長が燃やして捨てたという逸話が残っているので内心どう思っていたのやら…。

次回、三条天皇からです。

藤原一族の野望#8 道長登場前日譚

どうも未来の日本史博士です。

今回は日本史のなかでも屈指の有名人・藤原道長が登場するまでの流れについて解説していきます。

摂関家の傀儡

傀儡といって初めに浮かぶ人物って誰ですか?個人的には愛新覚羅溥儀清朝最後の皇帝・満州国執政)ですかね~。ラストエンペラーと呼ばれる人物ですね。少なからず知っている人も多いと思います。

ではなく、、、今回のメインは藤原摂関家の傀儡として操られていた花山天皇です。誤解のないように一応伝えておきますが道長が娘を入内させて産んだ皇子(後一条、後朱雀、後冷泉)なども全て傀儡ですからね。その辺りお間違いの無いよう。

ではざっと花山について紹介します。

藤原氏に騙された天皇

前回の記事で藤原兼家と仲が悪くなって円融が退位、花山が即位したところまで解説しました。花山は即位したものの花山のおじいちゃんの息子・義懐らが実権を握りました。結構活発に活動していて荘園整理令を発布したり、貨幣を流通を活発化させたりと様々な政策を実行しました。

でも、女御の藤原忯子が身ごもったまま亡くなると出家したいと言い出しました。そこで兼家の次男・道兼はともに出家しようと誘い、禁裏(天皇の住まい)から外出させて出家させてしまいました。

兼通は、というと父(兼家)に出家することを伝えてくるといったきり帰ってこなかったのです。「はめられた!」って気づいたんですかね?

兼家・兼通親子からすれば孫の懐仁親王(後の一条天皇)に即位してほしかったんですよ。

西国三十三箇所霊場

ん?って感じですか?那智青岸渡寺から始まるやつですよね。奈良時代に始まったものの忘れられていたんですよ。それを復活させたのが花山法皇です。

あるお寺には10年隠棲していたようですよ。

 

次回一条天皇の即位と藤原道長の登場です。