未来の日本史博士の時典

日本史オタクが歴史を語る。アニメ、スター・ウォーズなんかも好きなんで時々綴ります

持明院統と大覚寺統とは何ぞや?について解説②

どうも未来の日本史博士です。

北条義時の物語が大河ドラマ化することになりましたね~。今回のお話は義時の時代のしばらく後ですが、その時代の話は承久の乱シリーズ辺りにまとまっていると思うのでぜひ読んでください。

 

gonikyuroku.hatenablog.com

 

今回こそ南北朝の動乱の直接的な原因となった両統迭立についての解説をしていきます。

何はともあれ始めちゃいます。

後嵯峨天皇の即位


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そもそも88代後嵯峨の即位にもひと騒動あったのでそのあたりからお伝えしていきます。

もともと承久の乱の後に82代後鳥羽の血筋を廃すべく、無理矢理86代後堀河皇位につけたわけだったんですが、87代四条がたったの12歳で崩御したため跡継ぎがいなくなりました。


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(sirdaizine.comさんからの引用)

そこで時の権力者・九条道家西園寺公経はかつて幕府打倒を掲げて承久の乱に参加した84代順徳の子の忠成王を次の天皇候補として推薦しました。でも幕府側からすれば、もしも忠成王が即位すれば父である順徳上皇として院政する可能性(少なくとも政局に関与する可能性)が出てくることは何としても避けたいことでした。

ちょうど、村上源氏平安時代62代村上の子孫)の一派は83代土御門の子の邦仁王を推薦しました。

この状況だと幕府側は間違いなく後者を推すことは目に見えていたにもかかわらず道家鎌足幕府執権・北条泰時に意見を求めます。

前回の記事をみてもらえば分かるんですが、北条家は道家の子である4代将軍・藤原頼経との関係が悪化していました。

 

なので幕府側は道家の権勢を抑えることも含めて邦仁王を推挙、正式に88代後嵯峨天皇が誕生したのです。

宮将軍の誕生

後嵯峨は在位中は西園寺家と親戚関係となり権勢を維持しました。即位から4年後の1246年に時の太政大臣西園寺実氏の娘との間にできた皇子を89代後深草として即位させ、自らは退位しました。その後20数年に亘って院政を行います。


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そのころ鎌倉では北条泰時が亡くなり将軍・藤原頼経が反北条派と手を組んで北条一族を打倒しようという企みが起こるも、失敗しました。これによって頼経は京都に送還、息子の藤原頼嗣が5代将軍になりました


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(4代将軍藤原頼経

けれども頼経は諦めません。京都で再起を謀って再び北条一族打倒の策略を練っていました。そこで5代執権時頼は5代将軍藤原頼嗣も京都に送還し、深草の兄・宗尊親王を6代将軍に据えました。いわゆる宮将軍の誕生です。

ここで後嵯峨上皇後深草天皇は時頼に協力し、幕府から朝廷への援助を獲得しています。

後継者問題

深草は女性関係があまり華やかではなかったようで、その点で後嵯峨が弟(後の90代亀山)へ気持ちが傾く原因の一つになったとされています。

深草が病を患ったことも原因にあるともされていますが、後嵯峨の意向によって深草は弟に譲位、弟は90代亀山天皇として即位しました。

 

次回は両統迭立第三弾として後深草上皇亀山天皇の後継者争いについて解説していきます。

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持明院統と大覚寺統とは何ぞや?について解説①

どうも未来の日本史博士です。

前回まででようやく後鳥羽上皇あたりの一連の流れが終わり、鎌倉幕府自体も中盤に差し掛かってきて、時代としてはもうすぐ元寇だって感じなんです。

という訳で今回は鎌倉幕府滅亡後に起こる南北朝の動乱の引き金となった両統迭立について解説していきます。ここから足利義満(当事者としては後小松天皇)の南北朝合一までシリーズ化していきます。(このブログでは皇室メインの日本史について解説していますので、例えば元寇といった武家政権主導の事などは他のもっと素晴らしいブログを書いておられる方を当たってもらえれば)

今回は直接両統迭立について語ることはありませんが、今回の背景があったことによって両統迭立に至るので今回の記事を踏まえて、次回に期待しておいてください。

前置きが長くなりましたが、早速始めます!

承久の乱以後の朝廷の体制

承久の乱が終わった後、仲恭天皇が退位させられます鎌倉幕府側としては絶対に後鳥羽の血統から天皇を立てたくないので源平の争乱の時に安徳天皇らに共に壇ノ浦の方まで落ち延びた後鳥羽の弟・守貞親王の子を後堀河天皇として即位させました。

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まだ10歳だったので守貞親王自身が後高倉院として院政を行いました

特例中の特例で天皇ではない人物に太上天皇の位(退位した天皇の証)が与えられたため、ある意味で天皇とも言えますね。


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この時に西園寺公経内大臣として権力を握り近衛家実が摂政として、承久の乱後に人事が刷新されてます。承久の乱あたりの記事を読んで頂ければ分かるのですが、

 

gonikyuroku.hatenablog.com

完全に幕府よりの政権ですね。

北条泰時の執権就任


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2代目執権の北条義時が亡くなり、六波羅探題として京都以西を管轄していた息子の泰時が鎌倉に呼び戻されて3代目執権に就任しました。そのまま評定衆を創設して「御成敗式目」を制定、幕府の基盤を固めていきました。

荒れ果てた都

六波羅探題が監視の目を広げる中、自堕落な貴族に比べて治安を維持していた鎌倉幕府への評価が上がっていました朱雀大路を耕作地にする人が現れたり、内裏が火災によって焼け落ちました。これ以降大内裏が今までの位置に置かれることはなくなりました

また、飢饉が続き、彗星が出現します。当時、彗星は良くないことが起こる予兆とされていたので、それを避けるべく息子である四条天皇に1232年、譲位しました。後堀河院政を敷きましたが、2年後に崩御しました。

治安は悪く、天皇自身も無様


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北条泰時
四条天皇の即位はあまり乗り気ではなかったのですが、外祖父・九条道家と舅・西園寺公経の意向によって認められました。

しかし、京都の治安は悪化し、寺社同士の争いは激化しました。その反面、1日中火を絶やさず警備を続けた鎌倉武士の評判はとても高かったのです。遠い鎌倉の執権・泰時が励んだ倹約や救民政策の噂は京都にも届いており、鎌足幕府の評価は絶頂を迎えていました。


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藤原頼経
そんな鎌倉では将軍・九条頼経の処遇が問題となっていました頼経の父は四条の外祖父・道家であり、頼経本人も成人を迎え北条氏の執権体制に反対する勢力に担ぎ上げられ基盤を固めていきました。鎌足幕府とのパイプ役であった西園寺公経が亡くなり、九条道家関東申次になりました。北条氏に敵対心を持っていた道家を巻き込んでそれなりに大きな勢力となっていました。

亡き2代将軍・頼家の娘の竹の御所が頼経の正室だったんですが、惜しくも亡くなってしまいます。ここから一気に状況が変わり始めます。

そんな中、四条12歳の時に、いたずらで御所の廊下に滑石を塗って人を転ばせようとしたところ、自分自身が滑ってしまったことによって1242年に12歳で崩御しました。

まとめ

今回は後高倉院という異色の人物、その子孫である後堀河天皇四条天皇について解説しました。この血統は四条で途絶えるのでここからはまた次回。というわけで、次回後嵯峨天皇の即位から解説していきます!

≪総集編≫承久の乱とは何ぞや?について解説

どうも未来の日本史博士です。

今回は数回に亘ってお伝えしてきた承久の乱後鳥羽天皇らについてざっくりと解説していけたらと思います。

 

後鳥羽天皇の即位

より詳しい内容はこちらの記事から。

 

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 後鳥羽天皇の生涯は波乱に満ちたものでしたが、その即位も例外ではありませんでした。1183年に平家に持っていかれた三種の神器がないまま後白河法皇の令旨で即位し、その後は後白河と鎌足幕府を開いた源頼朝の政権の傀儡となるだけ。

多くの束縛から逃れたい後鳥羽は1198年に早々と息子を土御門天皇として即位させました。

1192年に後白河が1201年に頼朝が亡くなったため他に権力者がいなくなります。

後鳥羽院政は絶頂を迎え、承久の乱への策略が進んでいきます。

源実朝後鳥羽院

 

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 後鳥羽自身は学問にも秀でていました。新古今和歌集の編纂を藤原定家に命じたのも後鳥羽です。

鎌倉幕府の3代将軍・源実朝も宋の文化や和歌に精通していたので後鳥羽が自らの皇子を将軍として送り込むことを約束するほど親密な関係となります。

しかし、実朝が鶴岡八幡宮で暗殺されると態度は一変。

一気に仲が悪くなり本格的に討幕に向かって傾き始めます。

承久の乱

 

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 後鳥羽・順徳(討幕を熱心に唱え退位して加担)側が京都にあった鎌倉幕府直属の機関を襲いました。後鳥羽は執権・北条義時追討の綸旨を出します。

後鳥羽は鎌倉幕府側がおとなしく降参するとたかを括っていましたが、その目論見は完全に外れました。

北条政子の演説も含めて一致団結した鎌倉武士団は一気に京都に侵攻、圧勝した挙句に後鳥羽・順徳らを島流しにしました。

承久の乱は誰のせい?

 

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詳しくはこの記事を見てください。

82代後鳥羽、83代土御門、84代順徳、85代仲恭と彼らに追随、または迫害された公家が承久の乱が終わった後にどうなったのか、解説しています。

おおむね後鳥羽、加えて順徳が首謀とされています。

 

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 誰のせいというよりどうして鎌倉幕府側は勝つことができたのか、に重点をおいています。天皇に反抗するつもりはなく、後鳥羽側の侵攻から鎌倉を守るべく集結しただけだったのに…。後鳥羽側は西国の武士をかき集めたのに…。

詳しくは読んで頂ければ分かると思います。

 

まとめ

承久の乱は時代の流れで誕生した武士団の政権「幕府」と旧来の朝廷による初めての内戦です。だからこそ有名であり、謎がまだまだ残っています。後鳥羽に至っては幕府との融和、対立を経て承久の乱に踏み切っています。彼の心境がどう移り変わったのか、とても気になるところです。いつしか完全に解明されることを期待しましょう!

 

2019年総まとめ!今年のニュース

どうも未来の日本史博士です。

今年最後の記事は2019年の総まとめということで今年話題になったニュースをざっと振り返っていきたいと思います。見出しをヒントによかったら当ててみてください。

なんといっても今年は…


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天皇陛下の即位が何よりも目玉ですよね!それに付随して改元も大きな関心を呼んだニュースでした。さらに大嘗祭や即位パレードといった一世一代の行事にも日本中が湧きたちました。

 

 

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まさか…


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4月15日のノートルダム大聖堂の火災、10月31日の首里城焼亡が話題となった悲しいニュースでした。現在復興に向けて多くの人々が立ち上がっています。ぜひ応援したいですね。

あの有名人が…


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11月29日、中曾根康弘元首相が101歳で亡くなりました。数々の改革を断行し、ロンヤス外交と呼ばれるレーガン元大統領とも親交を深めたことで有名です。国鉄を解体させてJRを作ったのも中曾根首相でした。

もうそんなに…


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在職中の総理大臣・安倍晋三氏の首相通算在職日数が11月26日に2887日となり、歴代最長となりました。政治とカネの問題や桜を見る会、共通テスト&英検の問題などの数多くの問題を抱えていたものの野党の追及を逃れ安倍一強が続いています。野党は終結に向けて動きを進めるもののイマイチ…。来年の動向に注目です。

新紙幣は…


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新1万円札には実業家・渋沢栄一氏の肖像が選ばれました。近代への道を進む日本の経済を発展させた偉人です。2024年から使われ始めます。

38年ぶり!


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11月23日に歴代で二回目となるローマ教皇フランシスコが来日し、話題となりました。

原爆投下地である広島や長崎に向かったり、東京ドームでミサを行ったりと多くの人と交流されました。

大規模な交通規制


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6月28、29日にG20大阪サミットが開幕しました。大きな交通規制が敷かれ、派手にニュースになったことは覚えている人も多いでしょう。大阪城でエレベーターについて触れた安倍総理が物議を醸しています。

今でも韓国・文在寅大統領と安倍総理の握手シーンは日韓関係のニュースで使われていますね。

 

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待ちに待った世界遺産登録!


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7月6日、大仙・古市古墳群世界遺産に登録されました。大阪府民としてはとても嬉しいニュースでしたね。一方でどうやって観光するのかといった意見も上がったり…。観光資源として有効に、でも天皇陵なので程々に活用してくれることを願っています。

詳しくは以下の記事をどうぞ。

 

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見つかった!


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ポールアレン財団の調査によって10月18日に加賀、21日に赤城が沈没したミッドウェーで見つかりました。日本のために戦い、沈んだ貴重な航空母艦です。このミッドウェー海戦を機に太平洋戦争の戦況は大きく変わりました。時代の転換点で活躍した遺産です。

 

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ようやく脱退か


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EUの離脱の是非を巡ってもめているイギリスで7月24日にメイ政権の退陣に伴う選挙でボリス・ジョンソン氏が首相に就任しました。

 また12月12日ジョンソン首相率いる保守党が下院の総選挙で過半数を獲得しました。EU離脱に向けて加速することでしょう。年明けすぐに何かが起こることでしょう。

戦いは終わらない


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10月27日にアメリカ軍によってイスラム国のバクダーディ容疑者が殺害されました。

しかし、イスラム国は後継者を指名、まだまだ戦いは続きそうです。

まとめ

歴史ニュースだけではないものもありましたがいかがでしたか。僕の主観で選んでいるので忘れているものもあるかもしれないですが、何かあればコメントお願いします。

忙しくあっという間の一年だったか、長い一年だったか、皆さんはどう感じましたか?

来年はオリンピックイヤーです。来年も皆さんに歴史の面白さを伝えていくつもりです。来年以降もどうぞよろしくお願いいたします。よいお年を。

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承久の乱の責任はいづこに?その2

どうも未来の日本史博士です。

前回に続いて承久の乱の責任について解説したいんですが、今回は誰のせいで、というよりどうして負けたのか、ということをメインに話を進めていきます。

二本立てになっているのでまずは1本目から見ることをおすすめします。

 

 

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では早速始めましょう!

どうして幕府側は勝てたのか①

そもそも義時に勝つという想定があったのか、というところが論点になりそうです。義時はもしも天皇自身が挙兵した場合、弓を引く訳にはいかないので鎧を捨てろ、と部下に命令しています。もっとも部下だけが出てきた場合は徹底的に叩け、と言ったそうですが。

少なくとも天皇に反抗するつもりは皆無だったようです。

それでも幕府側が勝てたのは北条政子が下級武士を扇動したことが大きいと考えられます。


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北条政子
上級の武士であれば朝廷の威光を慮っていたため躊躇したりする人もたくさんいたようですが、下級の武士は頼朝のおかげで成り上がれたため政子に扇動されればもう動くしかないですよね。

こんな感じの精神論で勝ち組に加勢しようと考えていた人たちはどんどん幕府側になだれ込みました。

どうして幕府側は勝てたのか②


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後鳥羽上皇

 後鳥羽上皇側には大きな誤算が重なりました。そもそも義時追討の綸旨を出した時に降伏してくると思っていたのにまさかの宣戦布告が返ってくるとは…といった感じだったそうですよ。そしてここからの動きが幕府側より劣っていたのです。多くの武士をかき集めるのは圧倒的に幕府側が勝っていました

さらに侵攻してきた幕府軍が京都に迫ってくるのが予想以上に早すぎたのです。後鳥羽上皇側は比叡山延暦寺に向かうも僧兵たちには力が及ばないと拒否されます。ちなみに比叡山側に断られたのには1つ理由があるといわれています。それは高野山を優遇するあまりに比叡山に対して厳しくなりすぎた、ということです。


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上皇側が坂本の方まで逃げ込んだためにそのまま京都中心部に侵攻したのですが、ここにおいても幕府側の動きの方が早かったのです。西国の武士に招集をかけて、いざ集まろうというときに幕府側はすでに入京していたのですから。

そのためもしも上皇側の方が初動が早かったら形勢逆転も十分考えられたと言われています。歴史にifはないと言いますが、単純に結論だけを見て話しをするのは良くないですね。

とはいえ、鎌倉幕府側は北条泰時本人が大軍を引き連れて、宇治に乗り込んで戦争を終わらせます。結果が全てといいますが、その中身が実際鎌倉幕府側の方が初動対応が早く、士気が高かったわけです。

 

矛盾している内容を書き連ねましたが、様々なことを調べて考えるのが日本史の醍醐味の一つです!

次回は両統迭立についてです。

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承久の乱の責任はいづこに?その1

どうも未来の日本史博士です。

今回は承久の乱に関わった人物の事績、承久の乱の戦後処理について解説します。早速解説していきます。

 

皇室関連の処理

82代後鳥羽天皇


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ある種の首謀者であります。終盤責任転嫁にはしったものの幕府側は首謀者として認識していました。そこで7月9日に北条泰時が19万の大軍を率いて上京しました。そのまま隠岐に連行されて(42歳)そのまま60歳で崩御します。仏教勢力に対しては比叡山で対立したり、熊野勢力を味方に引き入れるために熊野詣を繰り返したりと戦略的に捉えていました。和歌だけでなく、書画や刀剣、蹴鞠など数多くの文化を振興した天皇としてはあまりにも対局的すぎる最期でした。

83代土御門天皇


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部外者と言えば部外者。本人は後鳥羽上皇の傀儡に過ぎなかったので承久の乱には全く関連しておりません。しかし、本人の性格上父が流されたのに自分だけ京都に残るのは忍びない、と考えていたため自ら土佐(高知)への配流となりました。その後幕府側の配慮によって阿波(徳島)に移転、宮殿まで造営してもらえました。父・後鳥羽とは対照的におとなしく、情け深い性格だったようです。そのため物足りないと思った後鳥羽は弟の順徳皇位を譲るように迫ったようです。在位中は外祖父・源通親に、その後は後鳥羽院政に政治を行われたためほとんど表舞台に立つことのなかった土御門は37歳で崩御しました。

84代順徳天皇


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後鳥羽に同調して討幕を唱えていた人物。もちろん戦犯認定で佐渡へ配流されました。即位後から討幕の意思を固めていたようです。皇室の伝統を重んじて古典として有名な「禁秘抄」という書物を作成するくらい有職故実の研究を熱心に行っていました

祖母が平教子であり、その影響もあってか源氏への少なくない恨みが原動力になっていたと思われます。

85代仲恭天皇

父である先代・順徳天皇承久の乱に参加すべく退位してしまったので、たったの4歳で即位しました。前回の記事で書いたように朝廷側はあっけなく敗北してしまいます。事後処理として朝廷に幕府側だった(幽閉されていた)西園寺公経を中心として、幕府と親しい公家を表舞台に立たせます。

即位から数か月後、北条義時承久の乱の責任をとらせる形で摂政を解任された九条道家に引き取らせ、退位させました。かつては「九条廃帝」と呼ばれていたものの明治時代になってから天皇として認められました。

朝廷側の公家の処理

藤原秀康・山田重忠


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秀康は北面、西面の武士であり、西国の国司を務めました。承久の乱では朝廷側の総大将です。重忠尾張地方の地頭だったものの、朝廷との関連が強く、承久の乱でも後鳥羽上皇に従いました。

秀康は奈良に逃れたところ、捕らえられて斬られました。重忠は部下が討ち取られた挙句、自害して果てました。

西園寺公経


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幕府側と関係が深かったため、後鳥羽上皇によって幽閉されました。しかし、前述の通り、北条義時によって内大臣復権、権力を手にした公経は北山に別荘を建てました。ちなみにその別荘を買収して、鹿苑寺を建てたのが足利義満です。

九条道家


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鎌倉幕府第4代将軍藤原頼経の父であり、仲恭天皇の外祖父にあたります。源頼朝と仲の良かった九条兼実道家の祖父です。さて、本人は直接承久の乱に関わってはないのですが、摂政を罷免されます。そして皇位を廃された仲恭天皇を17歳で亡くなるまで自分の屋敷で蟄居という形で預かりました。まあその後は関白に就任して…と全盛期を迎えるんですが、この記事では省略。

幕府側の動き

幕府が六波羅探題を設置して朝廷の監視にあたりました。初代探題には2代執権・義時の息子(後の3代執権)泰時が就任しました。そして多くの西国の武将が朝廷側に味方したため、領土を没収。それらを恩賞として東国の武士たちに与えました。

 

こうして幕府一強の統治体制が確立されていくのです。

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前代未聞の東西戦争~皇室VS鎌倉政権~


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どうも未来の日本史博士です。

今回はついに承久の乱についてです。

承久の乱のバックグラウンドについては前回の記事をご覧ください。

 

gonikyuroku.hatenablog.com

 さて早速開戦から解説していきます!

 

ほんとのほんとの前日譚

1221(承久3)年5月14日、後鳥羽上皇流鏑馬揃えを名目に西国への武士をかき集めました。幕府側の京都守護(幕末の京都守護職とは違います)の伊賀光季は後鳥羽の招集を拒否しました。同様に幕府と仲の良かった藤原一族の末裔・西園寺公経は幽閉されます。

翌日の15日には後鳥羽陣営は行動を起こします。伊賀光季邸宅を襲撃、光季は奮戦むなしく討ち死するも、鎌倉に情報を届けます。そして北条義時追討の勅令を出します後鳥羽陣営はさすがに天皇の命令には逆らわないだろうと楽観的だったようです。


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西園寺公経

伊賀光季からの上皇挙兵の知らせ、幽閉された西園寺公経からの同様の書状を受け取った鎌倉側はすぐさま行動起こします。上皇からの宣戦布告の書状を持ってきた使者を拘束します。そして兵士の招集を始めます。鎌倉武士には大きく二つの種類の人間がいました。そこで忠義に厚い武士には北条政子頼朝の御恩を説く「山よりも高く、海よりも深く」といった有名な演説をします。


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北条政子

一方の損得勘定を優先する武士には鎌倉が勝てば恩賞をたっぷり与えるという旨の書状を送り、味方につけました。この辺の行動は鎌倉幕府側の方が早かったのです。

開戦!

鎌倉幕府側は宣戦布告されているため箱根方面で防衛に走る作戦、京都に侵攻する作戦の二案が組まれました。政子の決断で後者が取られ、

・北陸方面(北条朝時軍)4万騎

・中央高地方面(武田信光軍)5万騎

東海道方面(北条泰時時房軍)10万騎

にわけて攻撃を開始しました。

ここで前述の拘束していた使者に鎌倉幕府側の宣戦布告を知らせる書状を持たせて送り返します。当初おとなしく降参すると踏んでいた上皇は狼狽して藤原秀康に京都の防衛を命じます

しかし、圧倒的な兵力差に敵うはずもなく、北陸・岐阜で防衛線を破られた上皇軍は瀬田の唐橋で京都を守ることにします。

天下分け目の瀬田の唐橋

瀬田の唐橋といえば、以前大友皇子天武天皇が戦った壬申の乱で有名です。そのあたりはこちらの記事をご覧ください。

gonikyuroku.hatenablog.com

 

さて、宇治・瀬田方面に軍を進めた鎌倉側は20万近くの兵力になりました。これに動揺した後鳥羽は自ら比叡山に登り、僧兵への助力を頼んだものの拒否されます。

そのため仕方なく残っている全兵力を瀬田に向かわせました


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その後は言うまでもなく幕府側の圧勝に終わります。しかし、実際のところは、豪雨によって橋が渡れず、多数の溺死者を出しつつも渡河したのです。それだけの代償を払ってさえ上皇軍は勝てなかったのです。兵力差が見てとれるようですね。

そのまま鎌倉軍は京都になだれこみ、荒らされた挙句に後鳥羽は責任転嫁を始めます

御所で宇治・瀬田での敗戦を知った後鳥羽に次の一戦を進言すべく御所に訪れた総大将藤原秀康らを門前払いして、「裏切り者の讒言で開戦に踏み切った」という旨の文書を鎌倉側に送ります。秀康と共に跳ね除けられた山田重忠は「大臆病の君に騙されてしまった」と罵りました。

こういう流れがあって秀康重忠らは寺院に立てこもったものの、奮戦むなしく敗走します。こうして承久の乱は終わりを迎えたのでした。

次回、承久の乱の戦後処理についてです。

<総集編>後白河天皇の生涯

どうも未来の日本史博士です。

今回は数回に亘ってお届けした後白河天皇の生涯をざっくりと追ったサイトマップです。

 

誕生~即位

1127(大治2)年、9月11日鳥羽天皇待賢門院の間に生まれます。青年期は今様にハマって兄貴の崇徳天皇からは「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と罵倒され後に源頼朝からは「日本一の大天狗」と罵られます。そもそも皇位を継ぐ立場にはなく、遊びふけっていたようです。そんな後白河は兄・近衛天皇崩御によって中継ぎとして即位

この辺りのことは以下の記事をご覧ください。

 

gonikyuroku.hatenablog.com

 

在位中~保元の乱

特にこれといった実績はなく、鳥羽院政下で求められた中継ぎとしての役割を果たします。そして自身の息子である二条天皇皇位を譲ります。

鳥羽の策略もあって崇徳と仲の悪かった後白河の側近・信西鳥羽の遺志を組んで、そして藤原摂関家の跡継ぎ問題と重なって保元の乱が発生します。

結果なども含めて以下の記事で解説しています。

 

gonikyuroku.hatenablog.com

平治の乱

簡単に言うと後白河院政下で調子に乗り過ぎた信西保元の乱の恩賞に不満を持った源義朝と手を組んで、それを打倒すべく平清盛が立ち上がったものです。この時に後白河は源氏側によって二条天皇もろとも一時幽閉されてしまいます。

結果も含めてさらに詳しく書いてあるので以下を参照してください。

 

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平家との確執

当初は平清盛が融和策を講じていました。その後六条天皇高倉天皇が即位したころに清盛が娘・徳子高倉に入内させて、誕生した皇子を安徳天皇として即位させようと画策します。そして清盛の専横が強まって、後白河は幽閉されます。

この辺りの話をこちらでしています。

 

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二帝並立

こんな珍しいことはこの時代と南北朝時代くらいです。清盛安徳天皇を即位させたものの平家の力は衰えて、西国に逃れます。そこで後白河は新たに息子である後鳥羽天皇を即位させます。この辺りの深い事情が下の記事を読めば分かります。

 

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源平合戦

木曽義仲が入京し、平家が西国に落ちて、壇ノ浦の戦いで滅亡するまでのお話です。

 

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鎌足幕府との駆け引き

平家滅亡に大きな役割を果たした源義経は兄である源氏の棟梁・頼朝から大した褒美をもらえず、不満を募らせます。これを察した後白河義経検非違使に任命して仲を引き裂こうとします。これに自分の断りもなく官職をもらった、と頼朝は激怒して義経追討を命じます。さらにその義経追討の一環として守護、地頭の設置を認めてしまいます。その結果どうなったのか、ぜひ本編を読んでください。

 

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まとめ

平家と組んだり、源氏と組んだり、仲たがいさせてみたり、いろんなことに手を出して武士による政権の発展を促進させてしまった、という意見や時代の流れに逆らえなかった、という意見、文化的な促進に一定の成果があった(梁塵秘抄/今様の歌集の作成)、という意見などあらゆる意見があり賛否が分かれますが激動の時代を統治した迷君だったことでしょう。

 

という訳で今回は後白河天皇の生涯編でした。

 今度は後鳥羽天皇の生涯についてまとめてみようかと考えています。

 

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承久の乱直前の一騒動


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どうも未来の日本史博士です。

ようやく即位関連の行事が一通り落ち着いたので天皇の歴史シリーズを進めていきたいと思います。

というわけで前回の後鳥羽院政に続く時代をピックアップしてしていきます。

ではさっそく始めます!

源実朝の在位中

前回に解説した通り、2代将軍・頼家北条政子以下御家人衆に更迭され、伊豆の修善寺に幽閉されてしまいました。その後は北条家を中心とした合議制が敷かれたようですがここでは割愛。そのまま頼家の弟・実朝が3代将軍に就任しました。


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実朝は政治に関与する機会が少なく、主に文化的な活動をしていました。例えば宋に行こうと船を建造したり、「金槐和歌集」なるものを編纂したり…。このおかげで文化人でもあった後鳥羽上皇後鳥羽自身も「新古今和歌集」を編纂しています)と友好的になり、公武融和に貢献していました。

鶴岡八幡宮暗殺事件

しかし、実朝が右大臣に就任したことの昇進祝いを鶴岡八幡宮にて行う機会があり、そこで悲劇が起こりました。


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あろうことか時の将軍が先代・頼家の息子の公暁に刺殺されたのです。


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ここで後鳥羽が動きます。そもそも実朝に子供がおらず、後鳥羽の皇子を次の将軍に据えようと考えていました。しかし、そんな物騒な場所に息子を送れない!と後鳥羽は踵を返したため一気に険悪ムードとなります。結局藤原摂関家から分裂した九条家より九条頼経を迎えました

(ちなみにですね、江戸時代の和宮降嫁のときもそうなんですが、親王格の皇子を東国に送り込んでしまうと皇位継承権を持っているため皇室が分裂しかねないという懸念もありました。そんなこんなで摂家将軍を迎えることになるんですが、もう少ししたら皇族将軍が登場するのでお楽しみに)

それはさておき、ある意味軍事を専門とする「公家」であった源氏将軍家を手中におさめようとしていた後鳥羽はその立場が北条一族に奪われたことを不満に感じ、前述の将軍後継者問題で火種がくすぶります。

後鳥羽は開戦止む無しという立場でしたが、土御門上皇や摂政・近衛家実らの公卿は大反対、順徳天皇は大賛成という立場をとっていました。

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何なら順徳に至っては皇位を自分の子に譲り、85代仲恭天皇として即位させました。順徳はフリーとなって討幕に全力をつぎ込みます。1221(承久3)年の事でした。

同じ年の5月に流鏑馬をするという名目で朝廷の支配が行き渡っていた西国の武士をかき集めました。

そして開戦の火蓋が切り落とされるのです。

次回、承久の乱!お楽しみに!

文武両道!後鳥羽天皇

どうも未来の日本史博士です。

ついに後白河院政編が完結し、鎌倉幕府編に入ってきたところです。

後白河法皇自身は頼朝が出資して再建された法住寺殿に移住して間もなくの1192年に崩御、その後九条兼実らのあっせんによって頼朝征夷大将軍に任命されることで鎌倉時代が始まりました。

というわけでその辺りから後鳥羽天皇に焦点を当てて解説していきます。

 

後鳥羽天皇の異例の即位

後鳥羽が即位する頃は安徳天皇の時代です。しかし、平家の力が日に日に弱まっていき、多くの公家らを敵に回したため、後白河は新帝を即位させることを画策します。


f:id:gonikyuroku:20191119005537j:image後鳥羽天皇

そんな中の1183年、木曽義仲が京都に入ります。そして安徳天皇を連れて平家一門が福原の方に逃げていきます。それも三種の神器を抱えて。ちょうどゴールデンウィークの時に行われた即位儀式の中で剣璽等承継の儀が行われましたよね。


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これこそが天皇が即位したことを示すものだったのです。というわけで三種の神器がないと即位をしたと証明できないんですよ。

さて、後白河はどうしたか?

答えは三種の神器を携えないまま即位したのでした。


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その即位の証明に使われたのは後白河の詔でした。さらに言えば壇ノ浦の戦いにて「草薙の剣」が海没してしまったためについにそろうことがなかったのです。

後鳥羽の治世

天皇としての治世での事績はあまり多くありません。ずっと後白河院政の時代でしたから。後白河崩御後に九条兼実の薦めで源頼朝征夷大将軍に任命したことは特に有名ですね。
f:id:gonikyuroku:20191119005429j:image九条兼実
ちなみに一部の公家と、兼実と疎遠になった頼朝の画策で兼実本人は朝廷から追い出されます。これは建久七年の政変と呼ばれます。

後鳥羽の院政

1198年に後鳥羽は83代土御門皇位を譲ります


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後白河
のこともあってか頼朝にとって院政は邪魔な存在だったため、できれば譲位してほしくなかったようですが、煩わしいしきたりや儀礼、政務から逃れて自由を手にしたい後鳥羽は三人の親王のなかからくじで長男の為仁親王を皇太子としました

頼朝にとって朝廷は日本の軸であるが故に重要視していたため、あまりぞんざいに扱う訳にもいかず、結局譲位を認めました。

娘の大姫を失った頼朝は1199年に落馬事を起こして亡くなります。まあ糖尿病だったともいわれていますけどね。

f:id:gonikyuroku:20191119005450j:image源頼家
その4年後の1203年には頼朝の長男・2代将軍頼家北条氏によって将軍職を解任、幽閉され、弟の実朝が3代将軍に就任します。

そうして公家の中でも重鎮が消え、鎌倉側でも頼朝がいなくなったため後鳥羽は最強の権力者となりました

もう誰も後鳥羽を止められない、そんな感じの雰囲気の中で3代将軍・実朝の死後に幕府との対立を深めて承久の乱へと向かっていくのです。

次回は承久の乱について、その後は鎌倉文化(仏教、後鳥羽の推進した文化)についてお送りしていきます。