市の職員さんに聞いた!仁徳天皇陵の調査について解説
どうも未来の日本史博士です。
先日仁徳天皇陵を訪れまして、ボランティアの方、堺市文化財課の職員さんに話を聞いてきました。と言う訳で、今回は仁徳天皇陵について、そして宮内庁との共同調査の内容についてさらに詳しく掘り下げていきます。
いきなり詳しく解説していくのでとりあえずざっくりと説明した記事を読んでからどうぞ。
仁徳天皇陵の概要
百舌鳥古墳群の1つ。全国で最も大きな古墳です。面積は濠を含めて約47万平方メートル(甲子園球場12個分)、一日2000人のべ680万人が働いても15年は軽く超えます。正式名称は百舌鳥耳原中陵(もずみみはらのなかのみささぎ)です。明治時代の発掘調査から埋葬されている石棺の形は亀の甲羅のような形をしているそう。石棺の蓋は幅約1.5メートル、長さ約2.5メートル、高さ約1.5メートルほどと推測されています。石棺を覆う石室について、長さは東西に約4メートル、南北に約2.5メートルで、20〜30センチメートルの丸石(自然石)を積んで作られていて、大石3枚でおおわれていたようです。また、石室と石棺よ間から甲冑、ガラスの杯、太刀の金具、鉄刀20本ほどが出土し、堤(濠の外側の部分)から出土埴輪や須恵器から5世紀中頃の築造と考えられています。
仁徳天皇陵アクセス
最寄り駅 JR三国ヶ丘駅(駅から徒歩約10分ほどで現地)
もちろん年中無休です。
仁徳天皇陵の写真
正面の拝所
すぐ横に宮内庁の管理所がありました。
横から見た仁徳陵
堺市役所21階の展望台からみた仁徳陵
(写真中央)
展望階にあった空撮写真
(写真右上)
明治時代の発掘
一度明治時代に堀が崩れたらしくその時に立ち入りがあったそうなんです。その時に甲冑が出土したそうで、仁徳陵の隣にある博物館でレプリカを見ることができます。現物はというと発掘された後、絵に写してそのまま埋めたのだとか。盗掘されていなければまだ眠っているそうです。ちなみに発掘場所はここ。米・ボストン美術館にも仁徳陵から出土したといわれている銅鏡などが保存されているそうです。
宮内庁と堺市の共同調査
では本題にいきましょう。
まずは調査された地点です。
3つの地点で調査を行ったそうです。堺市が主催した講演会で使用した資料を入手できたのでそちらから引用して解説していきます。
第一堤の3箇所(以下記載)にトレンチを設定して人力で掘削しました。
1トレンチ 幅2m×長さ28m
2トレンチ 幅2m×長さ31m
3トレンチ 幅2m×長さ28m
いずれのトレンチからも、現在の地表面の約0.2〜0.4m下において、第一堤上に並べられた埴輪列が第二濠際にて確認した。その一方、第一濠際では埴輪列が確認できなかった。(堺市「海を渡った交流の証し」配布資料)
つまり、埴輪は第一堤の外側にしかなかったということです。(以下参照)(イメージ)
何故、内側にはなかったのでしょう?先程の資料ではこのように考察しています。
このことについて、現段階では以下の3通りが推測される。
①築造当初から埴輪列が存在しなかった。
②波浪の浸食などにより堤が崩落した際に埴輪列も失われた。
③並べられた埴輪の間隔が広く、今回設定したトレンチの幅では埴輪列が確認できなかった。(同上)
識者の方ではこのように考察したそうですね。今後の調査に期待しましょう。
もう一つ仁徳天皇陵に石が敷かれていたという点についてお話しします。普通、古墳の斜面部分に崩落を防ぐ目的で石を半ば埋め込む形で敷きますが、今回の調査で堤の表面にも石が敷かれていたことがわかりました。より豪華に見えるように作ったんでしょうね。ちなみに石敷きと同一面に埴輪列があるので築造当初の遺構と考えられています。
堺市の職員さん、ボランティアのガイドさんに今後の調査について話を聞いたところ、宮内庁次第との返答が返ってきました。ただ、疑問点がさらに浮かび上がった以上再び実施する可能性は高いということです。これからの動向に目が話せませんね!
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