未来の日本史博士の時典

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続・欠史八代とは何ぞや?を解説〜本当に存在したのか〜

どうも未来の日本史博士です。

前回紹介した欠史八代ですが、実際のところいたのでしょうか?

まだ前回の記事を見てない方はこちらをどうぞ。

gonikyuroku.hatenablog.com

 

僕の考え

〜ここからは個人の意見です〜

まあ、いないでしょう。だっておかしくないですか?神武天皇の即位が紀元前660年でそこから9代の天皇…そんな古代に100歳超えても存命なのはとても納得できません。しかも、日本書紀古事記に記載されている情報が少なすぎる。ただ、欠史八代ではなくともその時代にクニを治めたであろう人物がいるはずで、その人物たちの列伝なのではと思っています。

 

創作説

大多数が占めると思いますけどね〜

とりあえず、紹介します。まず記載されている量が少なすぎる。つまり、系譜的記事はあっても、実績に関する記事がない。年齢が高すぎる。また、陵墓の観点から見ても、葛城地方に揃っているので、葛城氏という豪族が創作に関わっているのではないかと考えられる。全て父子継承というのがその後の皇室系図が複雑なのと合わないんです。

例を見てください。

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欠史八代系図です。

次に推古天皇時代の系図を見てください。
f:id:gonikyuroku:20190222171451j:image

すぐ後にはこれほど複雑なんですよ。

じゃあ欠史八代なんて創作で決まりだ!と思ったあなた、

100%創作と判断するのはまだ早いんです。

とりあえず史実説を見ていただきましょう。

史実説

じゃあ史実であるという根拠は何なのか?

まずは創作説の否定から入ることにします。

実績に関する記事が少ないという観点からみると、実は反正天皇欽明天皇崇峻天皇推古天皇なども記述があまりないんです。

でも反正天皇は「宋書倭国伝の倭の五王の「」といわれていて、欽明天皇は仏教伝来時の天皇崇峻天皇蘇我馬子に暗殺され、推古天皇は摂政におなじみの聖徳太子がいます。つまり、記事がないからといって創作と断定するのは説得力が欠けると思います。また、たとえ神武天皇の記事が長いとはいえ、奈良盆地の一角の勢力だった時代なので実績が伝わっていないのもおかしくはないはず。父子継承に関しても、2つの説があります。

  1. 実際に父子継承でつながる
  2. 実際は父子継承でないつながりがある

大事なのは後者で、日本書紀の文中でも、

「一(ある)に云(い)わく」などという書き方がされている部分もあります。実は異伝によると、4代懿徳天皇、5代孝昭天皇、6代孝安天皇の結婚相手が同一人物であるといわれています。(それも割と怪しいですが…)

この記述からは父子継承であるとは考えにくいはずです。なぜなら、記述からみてもそうですが、創作なら異伝を書く必要がないからです。(もっとも偽造のためというのも考えられますが)でも、そういう言い伝えもあったから書いたって考えるのが普通だと思います。

 

結果的には、どちらが正しいか分かりませんが、否定派が多数派だったので創作説を覆せそうな意見を多めに書きました。

なんとなく堅い内容でしたがこういう内容のことも書いていきたいと思います。

そして今後の研究に期待しましょう!

欠史八代とは何ぞや?を解説

どうも未来の日本史博士です。

今回は皆さんあまり知らないであろう欠史八代について語っていこうと思います。

 

 

そもそも欠史八代って?

以前紹介した初代・神武天皇の次の綏靖天皇から9代・開化天皇までを指します。

具体的には、

  1. 神武天皇
  2. 綏靖天皇
  3. 安寧天皇
  4. 懿徳天皇
  5. 孝昭天皇
  6. 孝安天皇
  7. 孝元天皇
  8. 孝霊天皇
  9. 開化天皇
  10. 崇神天皇

この8代を指します。

では、軽くですが、一人づつ解説していきます。

綏靖天皇

父:神武天皇

母:ヒメタタライスズヒメノミコト

享年 84歳

葛城の高丘の宮で政務をとる。

神武天皇の第3子で、異母弟の多芸志美美命(たきしみみのみこと)を殺害し、即位した。

安寧天皇

父:綏靖天皇

母:イスズヨリヒメノミコト

享年 57歳

母神は事代主神出雲神話大国主大神の子)の娘である。片塩の浮穴宮で政務をとる。

懿徳天皇

父:安寧天皇

母:ヌナゾコノナカツヒメノミコト

享年 77歳

即位した後、軽曲峡宮に移した。

孝昭天皇

父:懿徳天皇

母:アメトヨツヒメノミコト

享年 113歳

即位した後、葛城のわきの上に都を移し、池心宮を建てる。

孝安天皇

父:孝昭天皇

母:ヨタラシヒメ

享年 137歳

兄神に小野氏小野妹子小野小町小野道風など)の祖先となった天足彦国押人命がいる。葛城の室の秋津島宮を建てた。

孝霊天皇

父:孝安天皇

母:オシヒメ

享年 128歳

四道将軍吉備津彦命や、卑弥呼と同一視する説のあるヤマトトトヒモモソヒメノミコトの父。黒田の廬戸宮で政務をとった。

孝元天皇

父:孝霊天皇

母:ホソヒメノミコト

享年116歳

神功皇后などに仕えた武内宿禰の曽祖父と言われている。軽の堺原宮で政務をとった。

開化天皇

父:孝元天皇

母:ウツシコメノミコト

享年111歳

父の后のイカガシコメノミコトを皇后にして崇神天皇(10代目)をもうけた。春日の伊邪河宮で政務をとった。

 

欠史八代天皇


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全て葛城地方(奈良盆地南西部)に集中しています。

綏靖天皇
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こんな感じの陵墓です。

陵墓について言及した理由はまた次回以降へ〜

もっと詳しく紹介したかったんですが、今回はとりあえずこんな感じです。

 

 

 

日本書紀とは何ぞや?を解説②〜建国記念の日なので〜

どうも未来の日本史博士です。
建国記念の日といえば神武天皇が即位したと言われている日です。というわけで、神武天皇について掘り下げていければと思います。

そもそも神武天皇は存在したのか

日本史オタク(自称)としては、とても気になる点ですが、おそらく実在していないでしょう。無論、理由はちゃんとあるので後ほど説明します。
じゃあまずは神武天皇のプロフィールからいきましょう!

神武天皇

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和風諡号 
  神倭伊波礼毘古命古事記
  神日本磐余彦尊日本書紀
  ※読み方はどちらもカムヤマトイワレヒコノミコト
生没年 B.C.711〜B.C.585(享年127歳)
なお在位年はB.C.660〜B.C.585

神武天皇の来歴

天孫降臨の後、日向(宮崎県)の高千穂を治めていたが、兄・五瀬命と東征を始める。大和に近づいたが、五瀬命が戦死してしまい、熊野からの北上を試みるが、熊の神の毒で危機に陥る。そのとき、天上から贈られた霊剣、八咫烏、金鵄などを用いて、

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(金鵄で、敵の目を眩ませる神武天皇


次々と敵を撃破し、大和に入り、
今の橿原神宮で即位する。それから76年後に崩御した。


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橿原神宮本殿

ところで建国記念の日の由来は?

神武天皇が、B.C.660年1月1日にそくいし、その日を現在の暦に直したから。
ちなみに、2月11日では橿原神宮で祭りをやってます。

本当に神武天皇は実在したのか?

まずありえないですね…
だって紀元前の日本で誰が127歳まで生きてられるんですか、っていう話です。
現代人でもいないのに…
ただ、見方を変えると、何人かの人物をまとめた武勇伝ともとれるようで。東征に関しても何らかの史実を反映していると考えられています

以上神武天皇についてでした。
分からないことがあれば質問してください。なお、詳しいことは今後どんどん載せていくつもりです。

日本書紀とは何ぞや?を解説

どうも未来の日本史博士です。

今回は日本書紀についてです。

前回、古事記について紹介、解説しましたのでそちらも参照してください。

 

gonikyuroku.hatenablog.com

 というわけで今回は続編という形で、日本書紀について書き記していこうと思います。

日本書紀

基本データとしては、

  • 完成年   720年(養老4年
  • 巻数    30巻(系図1巻付属)
  • 表記方法  漢文

      といった感じです。


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成り立ちとしては681年に天武天皇が、川島皇子忍壁皇子に編纂を命じたのが始まりという。その後、720年になって天武天皇の子である舎人親王が完成させたそうです。

使われた資料は帝紀」や「旧辞」(古事記の編纂に利用された)だけでなく諸家の伝承、日記、朝廷の記録、そして朝鮮や中国の歴史書なども参考にされているので、、、

渡来人が編纂に関わっていると考えられています。

内容とは

総じて30巻あります。
今後詳細について紹介しますがとりあえず
概要を。
1〜2巻 神代
5〜30巻 10代崇神天皇〜41代持統天皇
(9巻に神功皇后、11巻に仁徳天皇、22巻に推古天皇、27巻に天智天皇、28,29巻に天武天皇、30巻に持統天皇
そして、付録で系図が一巻あったそうです。
 

何故、作ったのか

古事記があるのにどうして日本書紀も作ったのかと疑問に思った人も多いでしょう。それにはちゃんと理由があります。と言う訳で解説していきます。

ご存知の通り、日本書紀が作られた飛鳥時代は中国(当時は唐)が強大な力を持っていた時代ですから、中国に自国の領土の支配を認められて国が安定していました。そして、その支配の正統性を示す上で必要だったのが正史を示すことです。と言う訳で、日本書紀」が日本最初の正史となったんです。

ちなみに正史というのは、国家が編纂した正式な歴史書です。

その後…

遣唐使によって中国に運ばれた日本書紀に続き、正史がいくつか編纂されていきました。

一応紹介しておきます。

六国史

日本書紀」「続日本紀(しょくにほんぎ」

日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録

紹介できるときがあればしようと思います。

 

古事記とは何ぞや?を解説

どうも未来の日本史博士です。

今回は古事記についてです。いきなり堅いと思うかもしれませんが、よく読んでいけば意外と分かるものなんです。ではいきましょう!

 

古事記

とりあえず古事記の基本情報をどうぞ。

  • 完成年 712年(和銅5年)
  • 巻数  3巻
  • 表記方法 和文

といった感じです。

成り立ちについては、古事記の「序文」にあるのですが、天武天皇の命で「帝記」と「旧辞」を暗誦した稗田阿礼が語ったのを太安万侶が筆録したといわれています。

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稗田阿礼太安万侶

その内容

3巻ーつまり上巻、中巻、下巻からなります。

  • 上巻(かみつまき)

  天地創造から神代

  • 中巻(なかつまき)

  初代神武天皇から15代応神天皇

  • 下巻(しもつまき)

  16代仁徳天皇から33代推古天皇

古事記が作られた意義

古事記は何故作られたのでしょう?

それは、上記の構成を見ればわかります。

全体の3分の1を神代が占めているのです。

これは天皇家が神々の直系であることを示し、支配体制を固めることにあったのです。

ちなみに、日本書紀は別の役目があるのでまた後日…

 

 

いかがだったでしょう?

次回は日本書紀の内容について書いていこうと思っています。