未来の日本史博士の時典

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持明院統と大覚寺統とは何ぞや?について解説①

どうも未来の日本史博士です。

前回まででようやく後鳥羽上皇あたりの一連の流れが終わり、鎌倉幕府自体も中盤に差し掛かってきて、時代としてはもうすぐ元寇だって感じなんです。

という訳で今回は鎌倉幕府滅亡後に起こる南北朝の動乱の引き金となった両統迭立について解説していきます。ここから足利義満(当事者としては後小松天皇)の南北朝合一までシリーズ化していきます。(このブログでは皇室メインの日本史について解説していますので、例えば元寇といった武家政権主導の事などは他のもっと素晴らしいブログを書いておられる方を当たってもらえれば)

今回は直接両統迭立について語ることはありませんが、今回の背景があったことによって両統迭立に至るので今回の記事を踏まえて、次回に期待しておいてください。

前置きが長くなりましたが、早速始めます!

承久の乱以後の朝廷の体制

承久の乱が終わった後、仲恭天皇が退位させられます鎌倉幕府側としては絶対に後鳥羽の血統から天皇を立てたくないので源平の争乱の時に安徳天皇らに共に壇ノ浦の方まで落ち延びた後鳥羽の弟・守貞親王の子を後堀河天皇として即位させました。

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まだ10歳だったので守貞親王自身が後高倉院として院政を行いました

特例中の特例で天皇ではない人物に太上天皇の位(退位した天皇の証)が与えられたため、ある意味で天皇とも言えますね。


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この時に西園寺公経内大臣として権力を握り近衛家実が摂政として、承久の乱後に人事が刷新されてます。承久の乱あたりの記事を読んで頂ければ分かるのですが、

 

gonikyuroku.hatenablog.com

完全に幕府よりの政権ですね。

北条泰時の執権就任


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2代目執権の北条義時が亡くなり、六波羅探題として京都以西を管轄していた息子の泰時が鎌倉に呼び戻されて3代目執権に就任しました。そのまま評定衆を創設して「御成敗式目」を制定、幕府の基盤を固めていきました。

荒れ果てた都

六波羅探題が監視の目を広げる中、自堕落な貴族に比べて治安を維持していた鎌倉幕府への評価が上がっていました朱雀大路を耕作地にする人が現れたり、内裏が火災によって焼け落ちました。これ以降大内裏が今までの位置に置かれることはなくなりました

また、飢饉が続き、彗星が出現します。当時、彗星は良くないことが起こる予兆とされていたので、それを避けるべく息子である四条天皇に1232年、譲位しました。後堀河院政を敷きましたが、2年後に崩御しました。

治安は悪く、天皇自身も無様


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北条泰時
四条天皇の即位はあまり乗り気ではなかったのですが、外祖父・九条道家と舅・西園寺公経の意向によって認められました。

しかし、京都の治安は悪化し、寺社同士の争いは激化しました。その反面、1日中火を絶やさず警備を続けた鎌倉武士の評判はとても高かったのです。遠い鎌倉の執権・泰時が励んだ倹約や救民政策の噂は京都にも届いており、鎌足幕府の評価は絶頂を迎えていました。


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藤原頼経
そんな鎌倉では将軍・九条頼経の処遇が問題となっていました頼経の父は四条の外祖父・道家であり、頼経本人も成人を迎え北条氏の執権体制に反対する勢力に担ぎ上げられ基盤を固めていきました。鎌足幕府とのパイプ役であった西園寺公経が亡くなり、九条道家関東申次になりました。北条氏に敵対心を持っていた道家を巻き込んでそれなりに大きな勢力となっていました。

亡き2代将軍・頼家の娘の竹の御所が頼経の正室だったんですが、惜しくも亡くなってしまいます。ここから一気に状況が変わり始めます。

そんな中、四条12歳の時に、いたずらで御所の廊下に滑石を塗って人を転ばせようとしたところ、自分自身が滑ってしまったことによって1242年に12歳で崩御しました。

まとめ

今回は後高倉院という異色の人物、その子孫である後堀河天皇四条天皇について解説しました。この血統は四条で途絶えるのでここからはまた次回。というわけで、次回後嵯峨天皇の即位から解説していきます!