承久の乱の責任はいづこに?その2
どうも未来の日本史博士です。
前回に続いて承久の乱の責任について解説したいんですが、今回は誰のせいで、というよりどうして負けたのか、ということをメインに話を進めていきます。
二本立てになっているのでまずは1本目から見ることをおすすめします。
では早速始めましょう!
どうして幕府側は勝てたのか①
そもそも義時に勝つという想定があったのか、というところが論点になりそうです。義時はもしも天皇自身が挙兵した場合、弓を引く訳にはいかないので鎧を捨てろ、と部下に命令しています。もっとも部下だけが出てきた場合は徹底的に叩け、と言ったそうですが。
少なくとも天皇に反抗するつもりは皆無だったようです。
それでも幕府側が勝てたのは北条政子が下級武士を扇動したことが大きいと考えられます。
(北条政子)
上級の武士であれば朝廷の威光を慮っていたため躊躇したりする人もたくさんいたようですが、下級の武士は頼朝のおかげで成り上がれたため政子に扇動されればもう動くしかないですよね。
こんな感じの精神論で勝ち組に加勢しようと考えていた人たちはどんどん幕府側になだれ込みました。
どうして幕府側は勝てたのか②
(後鳥羽上皇)
後鳥羽上皇側には大きな誤算が重なりました。そもそも義時追討の綸旨を出した時に降伏してくると思っていたのにまさかの宣戦布告が返ってくるとは…といった感じだったそうですよ。そしてここからの動きが幕府側より劣っていたのです。多くの武士をかき集めるのは圧倒的に幕府側が勝っていました。
さらに侵攻してきた幕府軍が京都に迫ってくるのが予想以上に早すぎたのです。後鳥羽上皇側は比叡山延暦寺に向かうも僧兵たちには力が及ばないと拒否されます。ちなみに比叡山側に断られたのには1つ理由があるといわれています。それは高野山を優遇するあまりに比叡山に対して厳しくなりすぎた、ということです。
上皇側が坂本の方まで逃げ込んだためにそのまま京都中心部に侵攻したのですが、ここにおいても幕府側の動きの方が早かったのです。西国の武士に招集をかけて、いざ集まろうというときに幕府側はすでに入京していたのですから。
そのためもしも上皇側の方が初動が早かったら形勢逆転も十分考えられたと言われています。歴史にifはないと言いますが、単純に結論だけを見て話しをするのは良くないですね。
とはいえ、鎌倉幕府側は北条泰時本人が大軍を引き連れて、宇治に乗り込んで戦争を終わらせます。結果が全てといいますが、その中身が実際鎌倉幕府側の方が初動対応が早く、士気が高かったわけです。
矛盾している内容を書き連ねましたが、様々なことを調べて考えるのが日本史の醍醐味の一つです!
次回は両統迭立についてです。
もしよければ読者登録ボタンを押して頂ければ幸いです。