持明院統と大覚寺統とは何ぞや?について解説④
どうも未来の日本史博士です。
今回も引き続き両統迭立について解説します。
前置きにすることも特にないのでさっそく始めましょう。
登場人物
さすがに両統迭立の状況下で天皇の御名を連ねてもややこしくなるだけなので、ちょっと表にまとめてみました。
持明院統 | 大覚寺統 |
(88代後嵯峨天皇) | (88代後嵯峨天皇) |
89代後深草天皇 | |
90代亀山天皇 | |
91代後宇多天皇 |
主張・後嵯峨上皇と亀山上皇と後宇多天皇側(大覚寺統)
そもそもどうして亀山の血統を大覚寺統と呼ぶのかですが、亀山の子である後宇多が大覚寺で院政を行ったことに起因しています。いわゆる南朝です。
後嵯峨は亀山を寵愛しているので、亀山の子孫を天皇にすればいいと考えていました。
しかし、無条件で後深草の血統を無視するのも良くないと考えたのか、帰属先を巡って揉めていた長講堂領という皇室が保有していた巨大な荘園を後深草の血統に受け継がせることにしました。
主張・後深草上皇(持明院統)
こちらは後深草の子(将来の伏見天皇、後述)が持明院を御所としたことからこの名で呼ばれることが分かりました。いわゆる北朝ですね。
後深草としては自分の子どもを差し置いて弟の血統のみが優遇されるのが不服でした。そりゃ、そうですよね。しかも一つの領地で収拾を図ろうとするなんて。
そこで異議を鎌倉幕府に申し立てました。
判断・鎌足幕府の考え
特に悪いことをしたわけでもないのに、不当な扱いを受けるのはおかしい!として亀山を説得しました。そして折衷案が後深草の子・煕仁親王を亀山の猶子(養子よりも軽い繋がり)として皇位を継がせるというものでした。そしてその後は両統が交互に皇位を継承することにしました。これが両統迭立です。
幕府としては元寇の後の恩賞などを巡って混乱しているのにさらに皇室でも問題ごとを起こされてはたまらない、という北条時宗の考えだったみたいです。
しかし、朝廷内での軋轢が次第に幕府に矛先が向き始めて徐々に討幕へと傾き始めます。
今回は短めでしたが、次回は後醍醐天皇の即位直前まで一気に進むつもりです。
乞うご期待!
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