後白河の院政と二帝並立
どうも未来の日本史博士です。
さて、日々より多くの方々に天皇の存在の重要性を理解してもらうべく、天皇を主人公として歴史を語っているわけですが、そろそろ有名な人物がごろつき始めたなぁというあたりまで続けてくることができました。先日、ブログを本格的に開始してから半年が過ぎたころに通算2600PVを達成できました。1日のPV数も50を超えてくることが多くなってきたので目指せ100PV/日!という訳で今回も精一杯歴史を語っていきます。
さて、前回は安徳天皇の即位で終わったので今回はその続きからですね。
ここからは急展開ですので瞬き禁止ですよ!
安徳の即位と清盛の死
安徳が即位するまでには長い道のりがあったのは今まで書いてきたのでだいたい理解して頂けていると思いますが、改めて振り返ると上手に世渡りをしていたんですよね~。皇族の護衛をして気に入られ、摂関家や僧にも名誉に傷をつけないように間を取り持ちつつ最大限に権力を利用していたわけです。そして自分の娘・徳子を高倉天皇に入内させることに成功し、ついには誕生した孫の安徳(言仁親王)天皇を即位させることにまで成功したのです。
(安徳天皇)
しかし、安徳即位の直前の「治承三年の政変」から評判が悪くなり始めました。
じゃあ何が悪かったのか?
簡単に言えば横暴ですよね。特に顕著に表れているのが悲願だった安徳の即位です。とにかく院政を敷いて自分の権力を保ちたかった後白河を差し置いて(あろうことか幽閉までして)安徳を即位させてしまったのです。同時に人事も刷新して敵対する公家を排除して公家衆の不満が爆発しました。
さらに安徳即位後の最初の行幸で石清水八幡宮などを差し置き厳島神社にしようとしたことも伝統を重んじる公家の怒りを買いました。
(岩清水八幡宮)
上記の事情は宗教界からも反発も招き、さらに福原(兵庫・神戸)へ遷都を決断したことが皇族、公家はもちろん都の鬼門を守る立場にあった延暦寺からは猛反発です。
(比叡山延暦寺、ちょうど先日NHKのブラタモリで取り上げられてましたね)
ちょうど同じころに後白河の第三皇子の以仁王と源頼政の挙兵によって広がりつつあった反乱の芽を図らずも育てる羽目になってしまったんですね。
さらに平家にとって不幸は重なり、戦乱の中で東大寺、興福寺を焼いてしまうという失態も。
(言わずもがな東大寺)
そしてじわじわと情報が広がり、多くの人に以仁王の挙兵に同調して挙兵します。その中に源頼朝や木曽義仲らがいます。彼らは富士川や俱利伽羅峠で勝利して都に近づいていました。
その中でついに清盛の生命の灯が消えます。後世に伝わる話では体を冷やすために湯舟に入ったものの、それが熱湯になった、という逸話も残るほどの高熱にうなされてついに亡くなりました。
二帝並立
清盛が死去した時はちょうど近畿で干ばつが起こっていて京都に食糧がほとんど入ってこない時期だったんです。多数の兵士を抱える平家は滞在し続けるわけにはいかず、丁度源氏方が攻めてきているのもあって西国に落ち延びていきました。
(後鳥羽天皇)
この時に安徳も平家と一緒に西国に向かったので京都に天皇が不在となったため、高倉天皇の三男・尊成親王が後鳥羽天皇として即位しました。ちなみに三種の神器は平家が所有していたので言わずもがな平家方はこれを認めませんでした。あくまで後白河法皇の詔のみでの即位なので果たしてどれだけ浸透したかは未知数です。
さて、二帝が同時に存在した一時期に関してはまた次回を乞うご期待!