文武両道!後鳥羽天皇
どうも未来の日本史博士です。
ついに後白河院政編が完結し、鎌倉幕府編に入ってきたところです。
後白河法皇自身は頼朝が出資して再建された法住寺殿に移住して間もなくの1192年に崩御、その後九条兼実らのあっせんによって頼朝が征夷大将軍に任命されることで鎌倉時代が始まりました。
というわけでその辺りから後鳥羽天皇に焦点を当てて解説していきます。
後鳥羽天皇の異例の即位
後鳥羽が即位する頃は安徳天皇の時代です。しかし、平家の力が日に日に弱まっていき、多くの公家らを敵に回したため、後白河は新帝を即位させることを画策します。
(後鳥羽天皇)
そんな中の1183年、木曽義仲が京都に入ります。そして安徳天皇を連れて平家一門が福原の方に逃げていきます。それも三種の神器を抱えて。ちょうどゴールデンウィークの時に行われた即位儀式の中で剣璽等承継の儀が行われましたよね。
これこそが天皇が即位したことを示すものだったのです。というわけで三種の神器がないと即位をしたと証明できないんですよ。
さて、後白河はどうしたか?
答えは三種の神器を携えないまま即位したのでした。
(イメージ)
その即位の証明に使われたのは後白河の詔でした。さらに言えば壇ノ浦の戦いにて「草薙の剣」が海没してしまったためについにそろうことがなかったのです。
後鳥羽の治世
天皇としての治世での事績はあまり多くありません。ずっと後白河院政の時代でしたから。後白河の崩御後に九条兼実の薦めで源頼朝を征夷大将軍に任命したことは特に有名ですね。
(九条兼実)
ちなみに一部の公家と、兼実と疎遠になった頼朝の画策で兼実本人は朝廷から追い出されます。これは建久七年の政変と呼ばれます。
後鳥羽の院政
1198年に後鳥羽は83代土御門に皇位を譲ります。
後白河のこともあってか頼朝にとって院政は邪魔な存在だったため、できれば譲位してほしくなかったようですが、煩わしいしきたりや儀礼、政務から逃れて自由を手にしたい後鳥羽は三人の親王のなかからくじで長男の為仁親王を皇太子としました。
頼朝にとって朝廷は日本の軸であるが故に重要視していたため、あまりぞんざいに扱う訳にもいかず、結局譲位を認めました。
娘の大姫を失った頼朝は1199年に落馬事を起こして亡くなります。まあ糖尿病だったともいわれていますけどね。
(源頼家)
その4年後の1203年には頼朝の長男・2代将軍頼家も北条氏によって将軍職を解任、幽閉され、弟の実朝が3代将軍に就任します。
そうして公家の中でも重鎮が消え、鎌倉側でも頼朝がいなくなったため後鳥羽は最強の権力者となりました。
もう誰も後鳥羽を止められない、そんな感じの雰囲気の中で3代将軍・実朝の死後に幕府との対立を深めて承久の乱へと向かっていくのです。
次回は承久の乱について、その後は鎌倉文化(仏教、後鳥羽の推進した文化)についてお送りしていきます。