平清盛の勢力拡大と劣勢の後白河上皇
どうも未来の日本史博士です。
前回に引き続き今回も後白河上皇の院政期のお話です。そして平治の乱によって後白河の信頼を得た平清盛についても解説します。ではでは早速始めましょう。
≪今回のキーパーソン≫
院政 | 後白河上皇 | 院政1158年~1192年 |
今回の時代(1159年~1180年)の天皇 | 78代二条天皇 79代六条天皇 80代高倉天皇 81代安徳天皇 |
在位1158年~1165年 在位1165年~1168年 在位1168年~1180年 在位1180年~1185年 |
時の権力者 | 平清盛 近衛基実 松殿基房 |
参議太政大臣 贈正一位摂政関白太政大臣 摂政関白太政大臣 |
天皇の移り変わりと清盛
たとえ天皇の歴史について解説するブログとは言え、突然清盛に登場されても謎が深めるだけだと思うのでこちらで軽く紹介しているので良ければ読んで頂ければ。
さて、清盛は後白河にとても気に入られて参議、内大臣に昇進します。ただ、その間の1165年に二条天皇が崩御し、六条天皇が即位します。
(二条天皇)
(六条天皇)
亡くなるまで後白河と政権を争い、二頭政治を敷くも後白河勢力の地盤が強固になりつつあった最中の出来事でした。ちなみに六条は最年少の0歳7か月で即位しています。まだ赤ちゃんだったため即位式中に泣き出して授乳させたというエピソードがあります。
そのため摂政・藤原(近衛)基実が義父の清盛と共に政治を主導しますが、基実が翌年に亡くなり、後白河の院政が本格的にスタートします。
平清盛の共存共栄策
清盛の昇進は止まらず、1167年に教科書でおなじみの太政大臣に武士として初めて任命されました。また、藤原摂関家に伝わっている教え「天皇と共存共栄」という信念を受け継ぎ、娘の徳子を高倉天皇(1169年に後白河の意向で六条が退位、高倉が即位)に入内させて安徳天皇を産んだことで外戚として完全に政権を掌握しました。
(高倉天皇)
高倉の即位の時に清盛は病を理由に出家しています。自分の院政を盤石にしたい後白河と平氏と繋がりのある清盛の意見が一致した結果の出来事だったのでしょう。ちなみに六条は上皇になった後(この譲位を最年少)に13歳で崩御します。六条の治世は亡くなった二条と基実の遺産の分配くらいだといわれるほど在位は短く、権力は無かったようです。
清盛の専横
はじめは後白河と協調関係にあった清盛も荘園からの税収や日宋貿易による利益で莫大な資金を手にして官位官職を独占した挙句、清盛の専制に移行していきます。後白河も清盛の長男・重盛が亡くなった際に、知行国の越前を没収するといった攻撃に出ますがその甲斐もむなしく、1179年の治承三年の変が起こります。平氏の方針に反抗する勢力を潰し、後白河は幽閉されました。いろいろと評価は分かれますが、後白河と仲良くしていれば政権も長命だったともいわれますね。
さて、翌年の1180年には高倉を譲位させ、安徳天皇が即位します。
(安徳天皇)
高倉は院政に移行させられますが、何もできず翌年21歳で崩御しました。
様々な平氏の行動が災いして皇族、公家、寺社からの反発が強まるんですが、そこからの一連の流れは次回にて。
というわけで今回はここまでにします。次回以降乞うご期待!