持明院統と大覚寺統とは何ぞや?について解説③
どうも未来の日本史博士です。
今回は両統迭立シリーズ第3弾ということで前回に引き続き解説していきます。
前置きはこのくらいにして早速始めます。
亀山天皇の即位
ちょうど90代亀山天皇の治世の頃は元寇が襲来したころです。前回の記事でも紹介しましたが、89代後深草は内向的だったのに対して亀山は明朗快活で頭脳明晰だったため、二人の父・88代後嵯峨は亀山を優遇しました。このことが後々大きな騒動になるのですが一旦置いときます。
1259年の亀山の即位からおよそ6年後、元の皇帝・フビライから親睦を求めた親書が送られてきます。
政治の中枢は幕府なので親書自体は幕府経由で朝廷に提出されたんですが、幕府の意向として親書の返信をしないことを決定します。
朝廷のメインの仕事は国の安泰を願って祈りをささげることなので(今も概ね変わっていません)すぐに祈祷を始めます。その一方で幕府側は御家人に開戦の準備をするように命じます。
鎌倉では日蓮が布教活動を行い、幕府内では6代将軍宗尊親王を4代将軍藤原頼経の二の舞を防ぐべく更迭し、息子の惟康親王を7代将軍に据えます。
余談ですが、亀山天皇の像が福岡の方にありますね
後嵯峨上皇の崩御
そんな不安定な情勢の中、後嵯峨上皇が崩御します。この時の遺産相続をめぐって後深草と亀山が揉めることになるんですが、結局後深草が冷たくあしらわれ、亀山にほとんどの遺産が流れ込みました。
後宇多天皇の即位
亀山としてはどうしても自分の息子に皇位を継がせたい、と思っていましたが、それhが後深草も同じです。どちらも人の親ですから。
そこで亀山は息子・世仁親王の母(つまり自分の皇后)が高い位であることを利用して、1274年世仁親王を91代後宇多天皇として即位させました。
まあ後深草も黙っていたわけではなく、後々になって反撃を始めるんですが、これも元寇が終わってから。ちなみに後宇多の外祖父は洞院実雄という人物で後の伏見、花園天皇を含めて、三天皇の外祖父となっています。その実雄の孫・公賢は太政大臣に、さらにその孫・公定は「尊卑分脈」というとても重要な資料を編纂しています。
元の襲来
さて、1274年の超有名な出来事といえば何でしょう?
もちろん、元寇ですね。特にこの時は文永の役です。そして1281年には弘安の役も起こります。
弘安の役の時は亀山上皇自ら石清水八幡宮に参上して祈祷して、結果的に神風と呼ばれる嵐が起こり、撃退に成功しました。
皇室としては十分に役目を果たしたのでした。
その後の鎌倉では恩賞がない、すくない、という不満が爆発するんですが、皇室では後継者問題を後深草について鎌倉に訴えていました。
次回、幕府の判断と両統迭立体制の確立です。乞うご期待!
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