未来の日本史博士の時典

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後白河天皇と京都の動乱

どうも未来の日本史博士です。

最近古文書を読めるようになろうと試みて、勉強していて、おかげさまでブログの更新がおろそかになってしまいました。ともあれ、前回後白河が即位したところで終わっているので今回はその続きから始めます。

 

今様に没頭した遊び人


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後白河と聞くと歴史の転換点に在位していたからか、とても賢い人というイメージが強いですが、実際そうではなく「今様」という流行歌にハマって政治への関心などなかったようです。だからその即位の時に鳥羽上皇から「即位の器にあらず」と罵倒されていました。

では何で即位することになったのか?決定権は鳥羽上皇にあったのに…。ここには伝統という縛りがあったのです。鳥羽の子である75代崇徳、76代近衛と皇位が移り、近衛が崩御した後、同じく鳥羽の子である雅仁親王(後白河)の子・守仁親王を後継者にしようとしましたが、今まで父を差し置いてその皇子が即位した前例が無かったので仕方なく雅仁が後白河として即位しました。実際保元の乱の3年後に守仁を二条天皇として即位させています。

ちなみに承久の乱の後鎌倉幕府が、江戸後期に徳川幕府が先例を破って父を差し置いて皇子を即位させています。まあその件に関しては時期がくれば解説します。

保元の乱


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さて、長々と前置きをしましたが、後白河の治世について。今回のメインは保元の乱ですが、何故勃発したのか?という点について解説しましょう。そもそも後白河の2代前の崇徳は近衛の崩御の後、したたかに治天の君のポジションを狙っていました。なのに鳥羽上皇は後白河を即位させました。そしてその後すぐ、鳥羽が崩御したので崇徳と後白河の不仲は決定的なものとなりました。

1156年7月5日(鳥羽の崩御から3日後)後白河は関白・藤原忠通と結託して崇徳を「謀反人」として没落させます。対する崇徳も忠通の弟・頼長の味方に引き入れ対抗します。そこに源平の争いが混ざって保元の乱が勃発します。


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その後は知っての通り、7月11日未明に崇徳が籠城していた白河殿が放火され決着。後白河陣営の圧勝に終わりました。まあ崇徳は讃岐に流されて皇室を呪いました。


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そして先述の通りに保元の乱の3年後に二条に譲位、後白河の院政が始まるのです。

次回、後白河の院政平治の乱です。