今こそ知りたい天智と天武〜日本を変えた兄弟〜
どうも未来の日本史博士です。
以前、大化の改新や皇極天皇について書きましたが、今回は大化の改新を断行した天智天皇、そしてその弟・天武天皇について解説していきます。では早速始めます。
天智天皇
言うまでもなく大化の改新の中心人物ですよね。中大兄皇子というのが即位前の名前です。大化の改新の記事についてはこちらから。
天智についてはそれなりの量を書いたのでここはあっさりと…
そもそも即位するまでにいろいろありまして、そこからお話します。皇極の亡き後称制(即位しないまま政治を行うこと)に就いていました。なぜなら乙巳の変を起こした天智は天皇の位につくために蘇我氏を滅ぼしたと誤解されたり、反感を買いかねなかったからです。そんな中で朝鮮の百済が滅ぼされ、救援を求めてきます。これが白村江の戦いです。唐の水軍は楼船と呼ばれる巨大な船て倭軍を圧倒、完全勝利を収めます。やはり中国は侮れませんね〜。このときようやく即位しました。唐や新羅が攻めてくる可能性があったのでもともと都のあった飛鳥より内陸の近江に遷都し、九州に山城や水城を築いて防衛をしていました。
死の間際天智は皇太子を大海人皇子(後の天武・天智の弟)から大友皇子(後の弘文・天智の息子)に変え、大友皇子を太政大臣に任命します。その後46歳で崩御します。
弘文天皇
明治までそもそも天皇として認められていませんでした。日本書紀にも記載がないんです。さあ、なぜでしょう?
答えは単純。日本書紀の編纂を命じたのが天武だから(ちなみに天武については2巻分書かれています。)。弘文と天武が争ったのが壬申の乱ですからね。結果、壬申の乱に敗れ史上唯一の自殺した天皇となってしまいました。まあ自殺未遂をおこしたり、譲位してから自殺した天皇もいるのでそのうち紹介します。
天武天皇
今記事のメインパーソンはこの人物です。
では天智の死の間際に話を戻しましょう。天智が大友を皇太子にしたとき、大海人(後の天武)は天智の考えを察して吉野へ隠居します。そして天智が崩御した後、行動を起こして、近江朝廷軍を包囲、壬申の乱が勃発します。
話はそれますが、乱の場所が瀬田の唐橋周辺なのである意味「天下分け目の関ヶ原」なんですよ。結果的に内部分裂などが発生して統制が取れなくなった近江朝廷軍が瀬田の唐橋で敗北し弘文が自殺、乱は終結しました。
その翌年、飛鳥浄御原宮を造営して即位し、国家改革に取りかかりました。まずは「八色の姓(やくさのかばね)」の制定です。身分秩序を確立させることで天皇中心の政治を作り上げることに成功しました。さらに言うと「日本」や、「天皇」の言葉を初めて用いたのも天武が最初です。律令国家の建設に大きな役割を果たした天皇でした。
今回はここまで。次回以降もお楽しみに!
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