未来の日本史博士の時典

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日本最初の女帝~推古天皇~

どうも未来の日本史博士です。

今回は前回の予告通り推古天皇について解説していきます。もちろんおなじみの聖徳太子も登場しますよ。

ではでは早速いきましょう!

 

 

女帝登場


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推古天皇画像)

前回崇峻が暗殺されたところまで解説しました。そこでは推古の関与についても考察しましたが、今回は推古が即位するところからです。崇峻の死後すぐに敏達の皇后の豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が即位、推古天皇となります。もちろん知っていますよね。女帝の補佐をするために摂政がおかれ、厩戸皇子が就任します。これも有名ですよね。一度言っておきますが聖徳太子という名が一般的ですが、本名は厩戸皇子なのでここでは後者をとって書いていきます。ただ、今回は推古についての回なので厩戸皇子聖徳太子)についてはいつか詳しく書いていきます。

厩戸皇子も皇族だったため皇位継承権があって、また用明の皇子である厩戸皇子のほうが用明の妹である推古よりも血統的にも近いため現代では厩戸皇子の方が有力なんですが、当時は世代や年齢が重要視されたんです。という訳で推古が即位、厩戸皇子が摂政になりました。一応厩戸皇子が成長するまでの中継ぎだったんですが、推古は崩御する前に厩戸皇子が亡くなってしまったため皇子が即位することはありませんでした。

では、推古の治世を掘り下げて書いていきます。

まずは三頭政治の話から。(スターウォーズの古代史にもシス三頭政治ってのがあります。いつか語ります。余計な話題を持ち出してすいません。)

推古治世下の三頭政治のキーパーソン三名は推古天皇厩戸皇子蘇我馬子です。でも実態は推古は政治に関わっていないので、皇子と馬子が協力しあって政務を推し進めたのと考えるのが一般的ですね。推古も摂政である皇子さんに任せていましたが、別に推古自身は能力がなかったわけではなく、容姿端麗、頭脳明晰だったと言われています。

冠位十二階や憲法十七条といった政治の内容は厩戸皇子単体の回で。

なお蘇我氏の全盛期ではあったものの、馬子が推古に直轄領の支配権を願い出た際はきっぱりと断っているので決して蘇我氏の言いなりになっていなかったわけではんまいですよ。そんなこんなで三頭政治の均衡を保っていました。

推古自身の主な事績は「天皇記」「国記」の編纂や、四天王寺法隆寺の建立に関わったことや、遣隋使の派遣などですね。 

今回はここまで。次回、舒明天皇からです。乞うご期待!

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