未来の日本史博士の時典

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藤原一族の野望#7 村上源氏の没落と藤原氏の隆盛

どうも未来の日本史博士です。

今回は源高明そして冷泉院の次の円融院についてのお話です。ではさっそく解説始めます。

今回の時代の天皇 冷泉天皇
円融天皇
在位967年~969年
在位969年~984年
時の権力者 源高明
藤原実頼
従一位、正二位左大臣
正一位従一位摂政関白太政大臣
(詳しくは前記事参照)

 

安和の変


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源高明   源氏物語光源氏のモデルとも言われます)

ここでの登場人物は源高明です。彼は醍醐天皇の息子の一人で臣籍降下して源氏姓を賜っていました。前回の村上、冷泉時代の権力者であった藤原実頼の弟・師輔と交友があったようで、師輔の娘を娶っています。この後ろ盾を得た高明は急激に勢力を伸ばしていきます。ちょうど冷泉の即位とともに左大臣に就任します。その直前に自分の娘を冷泉の弟・為平親王に嫁がせています。

前回の記事で紹介した冷泉は奇妙な行動が多く、実頼は政務が心許ないということで関白に就任しました。で、実頼は考えます。皇位を早く交代すべきだと。まあそうですよね。という訳で皇太子を選び始めます。ここで候補に挙がったのが冷泉の弟の為平親王、守平親王の二人です。

さあどちらの親王が皇太子になったでしょう?

藤原氏が実権を握っているんです。だから為平親王よりは守平親王を選びますよね。それに憤慨した源高明は大いに失望したと。でもこの時すでに師輔は亡くなっていたんです。藤原氏は源氏勢力が天皇外戚になることを恐れたんですかね?

その後、謀反を起こそうとしているという内容の密告があり、藤原実頼によって太宰府に左遷。こうして完全なる藤原氏の独裁政治が始まります。この一連の流れを「安和の変」といいます。

摂関家に振り回された天皇

安和の変」によって担ぎ上げられた守平親王が円融として11歳なのに即位します。摂政は順に実頼、伊尹、兼通(伊尹、兼通は実頼の弟・師輔の子)が就任します。


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振り回されたのは何か?題名にありますがはたしてどういうことなのか?

まあ兄弟喧嘩です。兼通とその弟の兼家によるものです。この権力争いは今回は省略しますが、なかなかすさまじいもので、円融自身もかなり振り回されたようです。

やはり権力争いで重要になってくるのが天皇外戚になれるか、ということです。

最終的に両者ともに娘を入内させ、兼家の娘が後の一条天皇となる懐仁親王を産んで兼家が実権を握ることになります。

しかし、この争いに巻き込まれた円融は疲弊し冷泉の息子・師貞親王皇位を譲りました。

次回藤原道長登場です。乞うご期待!

個人的な話ですが、先日やっとpv数が1000を超えました!他のブロガーさんと比べても遅いのかもしれませんが、マイペースでのんびり運営していくことにします。これからもどうぞよろしくお願いします。

 

 

今後、アウトドアなどの趣味に関するネタの記事は別サイトで書くことにします。姉妹ページの方も何卒宜しくお願いします。サイトを作り次第、記事作りを活発化させていこうと考えています。

 

藤原一族の野望#6 乱・治・奇

どうも未来の日本史博士です。

今回取り上げる天皇三者三様です。とにかく全然違う性格の三人なのでぼんやりしているとこんがらがりますよ!では始めましょう!

≪今回の時代のキーパーソン≫

今回の時代の天皇 61代朱雀天皇
62代村上天皇
63代冷泉天皇
在位930年~946年
在位946年~967年
在位967年~969年
時の権力者 藤原忠平
藤原実頼
右大臣、左大臣
摂政関白太政大臣

 

「乱」が起こった時の天皇

一人目は朱雀天皇です。菅原道真の祟りを恐れて3歳まで几帳の中で育てたそうです。即位したのは930年です。時代的にどんな乱か想像できますか?

中学校の授業でも習う平将門の乱藤原純友の乱です。中央は藤原氏で固められていても地方はまだまだ荒れていたんですね~。この時政務を執り仕切っていたのが前回一瞬登場した時平の弟・忠平です。忠平は討伐軍を送り二つの乱を鎮圧させました

朱雀治世下に起こったことの他に富士山の噴火、地震などの災害もありました。しかも朱雀自身病弱で皇子にも恵まれなかったので嫌になったのか弟に譲位したそうです。

(ちなみに朱雀は後に後悔して復位を企んだこともあったようです)

醍醐に続く親政

朱雀に譲位されたのが村上天皇です。忠平の死後摂関を置かなかったので「天暦の治」として後世に評価されています。実際は忠平の息子の実頼に干渉されていたようです。村上の治世下には財政再建を図っています。その理由は簡単。朱雀の時代に二つの乱があったからです。貴族たちの給料を減らし、物価対策に取り組むだとか、さらには最後の「皇朝十二銭」である乾元大宝を作ったりしました皇朝十二銭っていうのはその名の通り朝廷が作った銭貨です。村上治世下で最後に鋳造して以降豊臣秀吉政権下なるまで中国の銭貨を輸入していました。

村上は文化面でも大きく貢献しました。「御撰和歌集」の編纂を命じたりと和歌の保護に努めました。さらに琴や琵琶も得意だったらしく国風文化の発展に貢献しました。

ちなみに村上天皇の息子・具平親王の子孫が村上源氏を創設しました。鎌倉幕府を築いた源頼朝といえば清和源氏です。しかし清和源氏は武士として成功するも滅亡します。その反面公家として成功したのが村上源氏です。後の時代の事件に関与する形で歴史上に登場するので今回は割愛。

ちなみに「村上」といった諡号はこの天皇が最後で、江戸後期の光格天皇まで「〇〇院」といった院号がつけられていました。

世にも奇妙な冷泉院

世の中にはいろんな性格の人間がいますよね。天皇家でも例外はなく、ここで紹介する冷泉天皇はとても奇妙な行動が多かったようです。例えば一日中足が傷つくまで蹴鞠をしたり、火事で避難している時に牛車の中で大声で歌ったりと…現代からみてもちょっと変ですよね。理由はいろいろあると考えられています。狭い狭い内裏の中で束縛の多い生活を送っているから、とかですかね。

これを踏まえて藤原実頼大極殿で行っていた即位礼を内裏の中の紫宸殿で行い、簡略化しました。これ以降、昭和天皇の時代まで紫宸殿で即位礼が行われました。

冷泉院の時代の政務と村上源氏の事件は次回解説します。

藤原一族の野望#5 延喜の治

どうも未来の日本史博士です。

今回は鎌倉時代後醍醐天皇が称賛し、参考にした醍醐天皇の延喜の治についてです。普通は崩御した後に諡号(例えば神武や仁徳)を贈るのですが、(つまり在位中の天皇陛下今上天皇と呼ばれています)後醍醐は自分で諡号を決めていました。それくらい参考していたようです。前置きはこれくらいにして本題に移りましょう。

≪今回のキーパーソン≫

今回の時代の天皇 醍醐天皇 在位897年~930年
時の権力者 藤原時平
菅原道真
左大臣
右大臣
正一位太政大臣

 

 

醍醐天皇の出自


f:id:gonikyuroku:20190602055843j:image醍醐天皇

驚くなかれ。醍醐はもともと臣籍の人物でした。そもそも父・宇多天皇源定省という名前で臣籍でした。その臣籍時代に醍醐が生まれたのです。だから生まれから臣籍だったのです。源維城(これざね)という名前でした。父・宇多の皇族復帰に伴って維城も皇族に復帰して敦仁に改名しました。その後立太子した時に宇多から下賜されたのが壺切御剣です。以降天皇即位に受け継がれるのが三種の神器立太子の時に受け継がれるのが壺切御剣、という伝統が生まれました。

とにかく唯一生まれから臣籍だったのは醍醐だけなんです。

では事績について解説します。

菅原道真藤原時平


f:id:gonikyuroku:20190602055915j:image菅原道真百人一首では菅家)

醍醐治世下では時平を左大臣、道真を右大臣にして摂政関白を置かない政治を行いました。摂関をおかず、自ら政務を執ったので「延喜の治」と呼ばれます。ちなみに天皇自身が行う政治のことを親政と呼びます。

宇多が譲位した時に前回の記事に書いた藤原基経との確執のような出来事が今後起こらないように菅原道真を積極的に登用しました。でも、藤原一族は不満ですよね。そこで時平は行動を起こします。

昌泰の変

時平は道真が自分の娘婿であり、宇多の子・斉世(ときよ)親王(つまりは醍醐の弟)を立太子させようとしていると醍醐に讒言しました。そして即座に醍醐は道真を太宰権帥として左遷しました。この時に詠んだ「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という和歌はとても有名ですね。

本題に戻りましょう。道真の左遷を知った宇多上皇は内裏に向かったものの閉じられていて醍醐に面会することができず、道真の後ろ盾である宇多は何もできなかったわけです。

現在では醍醐陣営が宇多陣営の勢力を削ぐために宇多が信頼していて代弁者とみなされていた道真が左遷されたともいわれています。

天神様の誕生

死後、突然の病で政敵・時平が死去します。それに続いて道真を陥れた人物が亡くなっていきました。さらに930年(延長8年)に清涼殿に落雷し多数の死傷者が出る事態となりました。それを見た3か月後に醍醐も崩御しました。すると貴族たちが道真の祟りだと恐れ始めました。ついに朝廷は道真を赦して正一位太政大臣の位を与えました。ここには時平の弟であり、道真と仲が良かった忠平が関与していたともいわれています。

北野天満宮をはじめ各地で天神信仰が盛んになり勉学の神様となってたくさんの人々から信仰を集めています。


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醍醐の文化振興

以前紹介した六国史の一つ「日本三大実録」の編纂を命じ、かの有名な「古今和歌集」の編纂にも着手しました。さらに律令制基本法である「延喜格式」をまとめました。ちなみに在位中に道真の進言で遣唐使を停止(唐が滅んだため事実上の中止)して、時平は荘園整理令の整備に尽力していました。

まとめ

ここまで活発に行動をおこした天皇は歴代でも珍しいですね。だから後醍醐天皇も醍醐親政を見習ったんでしょうね。

次回以降も乞うご期待!

藤原一族の野望#4.5(番外編) 宇多天皇から考える皇位継承

どうも未来の日本史博士です。

最近皇室に関するニュースが多いですよね~。

その中でも今後の皇位継承について提起されてる話題も多いな~って思っています。一般人がとやかく言う問題ではないですが、皇位継承について前記事の宇多天皇を参考にして考えていこうと思います。

 

皇位継承に関する問題点

そもそも皇位天皇の位)を継承できるのは皇統の男系男子のみと皇室典範(皇室について規定が書かれている法律)に定められています。つまり皇位を継承できるのは少なくとも父親が皇族の子供に限ります。そうなると現在天皇になる可能性があるのは秋篠宮文仁親王殿下(天皇陛下の弟、皇嗣)、その子・悠仁親王殿下、常陸宮正仁親王殿下(上皇陛下の弟)の三名だけです。こういった話をするのは失礼ですが、50年もすると断絶する危機に陥ることが考えられます。

女性天皇について

そういう訳で今後どのようにして皇位を継いでいくのかを可及的速やかに決める必要があるわけです。そこで天皇陛下の娘の愛子内親王殿下をはじめとする女性皇族を皇位継承権を与えようという議論が活発になってきています。しかも女系天皇女性天皇かで話は変わってきますよね。という訳で今回は割愛。いつかお話します。

皇籍に復活して即位する

今回の本題はここです。それこそ宇多のケースです。一度皇籍離脱した旧皇族を再び皇籍に復活させて立太子、即位させる案です。ここで持論を述べ続けても何も変わらないのでとりあえず継承できる可能性のある、太平洋戦争に敗北した後GHQの指令臣籍降下した11の宮家について解説します。

臣籍降下皇籍離脱)した宮家の紹介

 1 伏見宮


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室町時代に創始された家柄です。そのため筆頭家です。普通は2~3世の孫になると親王宣下されなくなるんですが、世襲親王家という格についていたため親王の位に就き続けました。本来の役目である皇統が断絶しかけた時に跡継ぎを輩出することを実際にする羽目になってその血統が現在にまで続いています。

ちょうど皇籍離脱した時の当主は26代博明王です。曾祖父・祖父共に海軍大将に就任しています。

2 閑院宮


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(始祖直仁親王

江戸時代に新井白石の進言によって設けられた役職です。こちらも世襲親王家であり、2代・典仁親王の息子が光格天皇になりました。そして光格が典仁親王太上天皇の位を与えようとして松平定信と喧嘩した、いわゆる尊号一件が起こりました。f:id:gonikyuroku:20190531074942j:image

光格天皇

皇籍離脱した時の当主は7代春仁王です。歴代当主の中には陸軍大将を輩出したこともあります。ちなみに春仁王は皇籍離脱に反対していました。

3 山階宮

江戸時代の末期に伏見宮邦家親王の息子から創設された宮家です。

皇籍離脱した時の当主は3代武彦王です。

4 北白川宮

明治初期にこちらも同じく伏見宮邦家親王の息子から創設された家柄です。もともと聖護院宮という名前で初代が改称しています。この家で有名なのは2代目の能久親王ですね。

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輪王寺宮という別名でも有名でして、奥羽越列藩同盟の盟主にも担ぎ上げられています。最期は台湾に出征している途中に陣没して皇族として初めて国外で薨去した人物としても有名です。台湾に能久親王を祀った神社があります。

皇籍離脱した時の最後の当主は5代道久王です。2,3,4代目が順番に台湾陣没、パリで自動車事故、戦時中に飛行機の不時着で亡くなっているので不運の家柄と言われていました。

5 梨本宮家

明治に入って伏見宮貞敬親王の息子から創始されました。この家はある点でとても有名です。それは後程。

皇籍離脱した際の当主は3代守正王です。そしてその娘の方子女王が有名であろうと思われます。改名した後は李方子と呼ばれました。

f:id:gonikyuroku:20190531075309j:image(李方子)
あれ!?「李」??と思ったあなた。宋なんです!大韓帝国最後の皇太子・李垠(リ・ギン)と政略結婚します。当初は嫌で泣いたそうなんですが、意外にも(?)仲は良かったらしいです。終戦後は韓国人として七宝焼を作ったり、障害児の教育の普及に専念して後に韓国側から功績を認められています。

6 久邇宮

こちらは香淳皇后を輩出した家としてゆうめいです。


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昭和天皇香淳皇后

皇籍離脱した時の当主は3代朝融王です。

7 賀陽宮

久邇宮家を創設した朝彦親王邦憲王が創始し、次の代の恒憲王の時に皇籍離脱を命じられて断絶しました。子孫は天皇陛下の同窓生であり、外務省に勤務しているとか。

8 東伏見宮

伏見宮邦家親王の子・依仁親王が創設しました。しかし、養子をとることは禁止されていたので、依仁親王薨去してしまい断絶しました。一応祭祀を継承するために先ほどの久邇宮朝彦親王の孫・邦英王が臣籍降下して東伏見邦英として跡を継ぎました。

9 竹田宮

テレビによく出演していますよね。北白川宮邦彦親王の子・恒久王が創始しました。その次の恒徳王の時に皇籍離脱しました。ちなみに恒徳と子供の恆和がIOCの委員を務めています。恆和の子・恒泰は男系維持論を唱えてワイドショーなどにも積極的に出演しています。

10 朝香宮

先ほども出てきた朝彦親王の息子・鳩彦王によって創始されました。その次の代の孚彦(たかひこ)王の時に皇籍離脱しました。

11 東久邇宮

またも朝彦親王の子が創設した家です。その当主の時に皇籍離脱したので、一代限りの宮家となりました。それが稔彦王です。

f:id:gonikyuroku:20190531203627j:image東久邇宮稔彦王
稔彦王は43代総理大臣になりました。(史上唯一の皇族首相・史上最短)

まとめ

伏見宮家はとても長い血統があり、血筋もそれなりに離れていますが、割と近い血統の家もあります。継承できる可能性のある人物もあります。皇位に復帰するならば当人の性格がいいか、とかも考慮すべきだと思いますが、ここでは省略。

もう間もなく政府が女性天皇などの問題について行動を起こすと思います。その時までも、それからも増々ニュースに目が離せませんね!

 

次回以降も乞うご期待!

 

 

藤原一族の野望#4 藤原基経のいちゃもん!?

どうも未来の日本史博士です。

今回は人臣初の関白・藤原基経、そして臣籍降下したものの皇族に復帰して即位した宇多天皇についてです。

≪今回のキーパーソン≫

今回の時代の天皇 宇多天皇 皇位887年~897年
上皇位897年~931年
時の権力者 藤原基経
藤原時平
菅原道真
前記事参照
正一位太政大臣
同上

 

源氏の天皇

宇多は先代・光孝の第7皇子として生まれたもののこの時子供が多すぎて皇室財政を逼迫していたので、困った朝廷は子供を源姓を与えて臣籍降下させました。さらに台頭した藤原氏藤原氏と関係の薄い親王を出家させたりしていました

が、しかし、光孝が即位したのは高齢だったため病に倒れ、しかも後継者を決めなかったのでまあ大騒ぎ。そこで急遽源定省(さだみ)が親王に立てられて皇太子になった

その後光孝が崩御、それを受けて定省が宇多天皇として即位しました

宇多天皇と基経との確執

宇多は即位しました。しかし、基経は宇多は一度人臣になっていることと、賢明だったことが気に食わないらしくて事件は起こります。

即位した年に基経は関白に任じられました。その時の勅書にて「宜しく阿衡の任を以て、卿の任となすべし」というものでした。ここからは有名ですよね。さて、解説しましょう。阿衡というのは古代中国の故事にちなむもので名目上の位があるだけで実権はないというものだと文句をつけて事態しました。

結局長期化して政務が滞り困り果てたために宇多側が再三説得して宇多が謝りを認める勅令を出したため基経は関白に就任して決着しました藤原氏天皇の権力を超えることを証明した事件でした。

寛平の治

基経の死後、今回のことがないように宇多は対応を取りました。

まずは菅原道真の登用藤原氏に権力が集中しないようにしました。基経の跡を継いだのが息子の時平です。中学校の授業でも出てくる遣唐使を廃止を道真が進言した一件。(ちなみに廃止ではなく必要ないと停止させただけです。)そもそも道真を邪魔に思った時平が遣唐使の大使に道真を推したんです。でも宇多は道真の意見を受けて遣唐使を停止しました

その他に国司に租税の権利を与えて形式になり始めていた律令制度を再構築しました。また私営田を抑制したり、「滝口の武士」という清涼殿の護衛を担当する衛兵を設置したりと、とにかく朝廷を立て直すために改革を行いました。

初の法王

宇多は仁和寺を創建しました。宇多はこの仁和寺を気に入り、31歳のとき子供の醍醐天皇皇位を譲って出家、日本史上初の法王となり65歳まで生きましたとさ。

まとめ

とにかく面白い人生を歩んだ天皇でしたね。臣籍降下から即位、基経との阿衡事件から菅原道真の重用。そして出家からの大往生。

歴代の天皇の中でもとても行動的な天皇後醍醐天皇なども参考にしています。

 

次回以降も乞うご期待!

 

藤原一族の野望#3暴れん坊天皇が人殺し!?

どうも未来の日本史博士です。

今回解説する天皇暴れん坊将軍ならぬ暴れん坊天皇陽成天皇、そしてその次の光孝天皇です。前置きはこのくらいにしてさっさと本題に進みましょう!

≪今回のキーパーソン≫

今回の時代の天皇 陽成天皇

光孝天皇
皇位876年~884年
上皇位884年~949年
皇位884年~887年
時の権力者 藤原基経 摂政872年~880年
関白887年~891年
太政大臣881年~891年

 

 

粗暴な天皇

126代の天皇の中でもなかなか荒々しかったようで時の権力者・藤原基経もさぞかし困ったようです。犬と猿を闘わせたり(犬猿の仲といえども…)、カエルを蛇に食べさせるのを鑑賞したりとなかなかグロテスクな行動をしていたようです。たとえば北畠親房南北朝時代の人物)の「神皇正統記」などにもこういった行動が書かれています。さて、この記事の題名にもあるような人殺しを本当にしたのか?

その噂の事件はこう。陽成の乳母であった紀全子の子・源益が内裏で殺害されるというものです。これがきっかけで基経より譲位を迫られて、退位したとか。実際基経は陽成と仲が悪かったので譲位させる口実として捏造した可能性もあるという。まあ陽成は事件であれ、事故であれ、何らかの形で関与していたという解釈が一般的です。最終的には基経が花見を進めて御所の外に連れ出して譲位させて一件落着(?)しました。

謙虚すぎる天皇

陽成と光孝は正反対の性格なのに歌才は両名あるようで両方の句が百人一首に収録されています。光孝は「君がため 春の野に出でて 若菜摘む わが衣手に 雪は降りつつ」。そして陽成は「つくばねの 峰より落つる みなの川  恋ぞつもりて 淵となりぬる」という心に沁みる歌を作っています。なお陽成に関しては上皇歴が史上最長の65年(2位は冷泉の42年)で位を離れたが故なのか元気に人生を全うしたようです。

本題に戻りますよ。陽成を廃位したら誰が天皇として即位するのか、というのが命題になっていました。そもそも幼い天皇が続いた挙句事件が発生、また藤原一族の中でお家騒動が起こって混乱した情勢でした。だから次は年配の人物が適任と考えられていました。

まずは承和の変で廃された恒貞親王が推挙されたものの本人が拒否してしまいます。その次、嵯峨天皇の子・源融が自分を推したものの基経がバッサリと切り落としました。色々あって推薦されたのが時康親王です。とても謙虚で自分から皇位を求めることがなかったので基経が目を付けました。まあ時康親王と基経が親戚筋であったことも関係したと思われますが…まあ多くの官職を務めたのが天皇になった遠因でしょう。

この結果即位した光孝は基経に全権を委任することに決めたため、実質基経が関白になったも同然でした。光孝はとても珍しいことに相撲行事の管轄をしていたこともあって相撲を奨励し、また鷹狩りを復活させました。

今回はここまで。

次回以降も乞うご期待!

 

藤原一族の野望#2 誰もが知る源氏の祖先

どうも未来の日本史博士です。

今回は55代文徳天皇、56代清和天皇についてです。本題は清和ですがまずは文徳の時代から解説していきます。さあ始めましょう。

≪今回のキーパーソン≫

今回の時代の天皇 55代文徳天皇
56代清和天皇
皇位850~858
皇位858~876
時の権力者 藤原良房太政大臣・摂政) 太政大臣857~872
摂政858~872

 

文徳天皇

前回紹介した承和の変立太子された道康親王がそのまま即位して文徳天皇となりました。でも文徳が即位できたのは良房のおかげですよね。だから文徳に発言権はないんです。

良房は太政大臣にまで昇進して文徳の次の天皇まで決めてしまいました。文徳自身は自分の第一子の惟喬親王を皇太子のしようと考えていたのに、良房が自分の娘・明子との子である惟仁親王を即位させようとしたため文徳が遠慮して結局惟仁親王が皇太子になりました。

ちなみに惟喬親王はというと木地師というお椀を作る職人の祖になりました。f:id:gonikyuroku:20190521192440j:image

源氏の祖先の天皇

清和源氏。たとえば源義家。たとえば源義経。たとえば源頼朝。全部清和源氏の血統です。その祖先である清和天皇は9歳で即位しました。もちろん藤原良房外戚として監督しました。その良房は嵯峨天皇の娘・潔姫(臣籍降下して源氏姓を与えてから)をもらい、妻としました。そのため他に側室を置かなかったので子供が明子しかいなかったんですよ。先述の通り明子と文徳との子供が清和です。

本題に戻りまして、良房はさらに地位を盤石にするために兄貴の藤原長良の娘・高子を入内させました。高子は「伊勢物語」で在原業平と恋に落ちたエピソードで有名ですね。清和と高子の子が次の天皇となる貞明親王です。彼もなかなか波乱の人生を送った天皇ですので次回紹介します。

ある時、平安京内裏の朝堂院の応天門が炎上しました。ここでさらに良房はこの事件を利用して伴善男源信を失脚させました。これが「応天門の変」です。そして清和が成人してるにも関わらず良房は摂政に就任して摂関政治が始まりました

源経基臣籍降下

じゃあ題名になっている源氏の話をしましょう。

清和ー貞純ー六孫王(源経基

こういう血統で源氏につながっていきます。詳しくは後述の家系図で。

経基は平将門の乱藤原純友の乱では現地に到着する前に鎮圧されて、全く成果も上げられなかったものの鎮守府将軍にまで上り詰めました。そして晩年に源氏姓が与えられ、臣籍降下しました。こうして2世紀ほど後の武家政権の基になる源氏が誕生したのです。f:id:gonikyuroku:20190521192456j:image

(引用:家系図で見てみようameblo.jp)
敢えてここで紹介すると平氏平安京を開いた桓武天皇の子孫から出ています。

今回はここまでです。

次回以降もここまで乞うご期待!

藤原一族の野望#1 橘家の打倒

どうも未来の日本史博士です。

今回からは藤原一族に焦点を当てつつ、天皇の歴史について解説していきます。

という訳で、今回は第一弾として橘一族との攻防について解説します。では早速始めます。

 

 

この時代の権力者

天皇 仁明 833~850
権力者 藤原良房 檀林皇后 橘逸勢 ――――

仁明天皇の陰謀

前回解説した淳和天皇は前々回紹介した嵯峨天皇の皇子を皇太子として、仁明天皇として即位しました。すると仁明は淳和の息子・恒貞親王ではなく、自分の息子を皇太子にしようと画策し始めたのです。そして嵯峨、淳和がともに崩御すると、藤原氏が動き始めます。やっぱり他の家は邪魔なんでしょうねー。しかも今回の陰謀には天皇自身が関わっていたとも言われています。

この時藤原氏の棟梁は藤原良房です。中臣鎌足からの血統は以下の通りですね。

鎌足不比等ー房前ー冬嗣ー良房

藤原氏については別記事でとても詳しく語るつもりです。さあ話を戻しましょう。

良房は嵯峨天皇の皇后・檀林皇后(橘嘉智子)と嵯峨天皇の信頼を得て、台頭していきました。でも嵯峨、そしてその一代後の淳和が崩御すると事態が急変するのです。果たして何が起こったのか?要はお家騒動ですね。よくあるんですよね。父が死んで子が争う…的な感じです。

藤原良房の敵になるのは主に橘逸勢です。で、逸勢は恒貞親王を次の天皇に推薦します。でも良房の妹・順子と仁明との子供である道康親王がいました。じゃあ良房からすれば道康を推挙しますよね。しかも仁明も自分の子である道康を皇太子にしたかったため嘘か真か良房に加担していたとか…。 

承和の変

では良房の陰謀について解説していきましょう。

勝者 敗者
藤原良房
仁明天皇
橘逸勢 
伴健岑

実際こんな感じになるんですが、出来事を順を追って説明していきます。

皇太子擁立争いが淳和、嵯峨に止められていたのに、両名が崩御すると誰も止められなくなります。橘逸勢が自らの推す恒貞親王の身が危ないと案じて東国に移送する計画を発案。でも平城の息子・阿保親王に相談したところ阿保が檀林皇后に密告してしまいます。それを知った良房は逸勢、健岑とその一味を逮捕します。(この時恒貞親王に罪はないとして無罪でした)しかし、やっぱり良房側にしてみれば恒貞親王は邪魔者です。そこで責任を負わせる形で恒貞親王皇位を廃します

まとめ

良房のメリットは何だったのか?

それは周りに権力者がいなくなったことです。伴氏、橘氏を弱体化させ、他の藤原一族の者も同時に失脚させたため誰もいなくなりました。これを機に藤原氏の一家独裁が始まっていくのです。

 

次回以降も乞うご期待!

天皇も散骨?!淳和天皇の生涯

どうも未来の日本史博士です。

しばらく日を空けましたが、引き続き天皇の歴史について解説していきます。

さて、今回の話題は淳和天皇、そして彼自身が歴代で唯一散骨したという点です。とりあえず、軽く天皇の葬儀についてです。

 

天皇の葬儀

何を隠そう日本には古墳があります。まもなく世界遺産になるかどうかが決まりますが、それはさておき…天皇崩御すると土葬されていたんですよね。持統天皇の頃から火葬に移り変わったんです。そして今では天皇の葬儀のことを大喪の礼と呼んでいます。どちらにせよ、膨大な費用がかかりますよね。ということを踏まえた上で淳和についてです。

淳和天皇

平城、嵯峨と同じく桓武の息子です。薬子の変のいざこざの中で高丘親王が廃位させられたので代わって立太子、即位しました。でも立太子に乗り気ではなく嵯峨の懇願でようやく立太子したとか。では軽く淳和の事績について解説していきます。そもそも民思いだったのか、ただの倹約志向だったのか、大嘗祭も簡略したようです。そして皇室財産を盤石なものにするために勅使田を設けました。公地公民なのにね。そして後世の研究者からすれば最もありがたい点である「令義解」の作成です。その他「日本後紀」や「経国集」も作成を命じているのですが、今回は「令義解」について解説していきます。そもそも「令義解」とは公式法令解釈書のことです。何より現代でこの書物が役に立つ理由は今はもう失われた大宝律令」や「養老律令」の解説が書いてあるので現物がどのようなものだったかが分かるのです。これで研究が進歩するんですよね。

そして淳和が崩御するときにも大嘗祭の一件と同じく民のことを思ってか散骨するっいぇ言いだしたんですよ。という訳で京都の西院に散骨されましたとさ。

次回、承和の変から文徳天皇についてのお話です。

上皇って存在して大丈夫なの?薬子の変から考察

どうも未来の日本史博士です。

今回は前回の薬子の変の解説からちょっと脱線して、上皇の存在について考えてみようと思います。

 

薬子の変の原因

なぜ薬子の変が起こってしまったのか?それは平城上皇嵯峨天皇が二重政治を敷いたからなんです。二所朝廷という言い方をする人もいますが、実際嵯峨の施政下で平城が大権を発動したからです。そりゃ国民もどちらに従ったらいいのか迷いますよね。でもね。朝廷が誤解していただけなんですよ。院政が敷かれていた時期ではないので上皇というよりも太上天皇、つまりただの隠居した天皇なんですね。なので政治権力も皆無で、官人が上皇天皇に分かれて政治を行っていたってだけです。また、平城が詔勅を出そうとしたら嵯峨の許可(つまり御璽)が絶対必要だったわけなので直接的に国家に命令できる立場にはなかったんですよね。逆に孝謙上皇はいち早く御璽を入手して国政を動かしました。

現在の世の中で上皇天皇の二重権力状態はありうる?

まあないでしょうね。そもそも平成の天皇陛下(今の上皇陛下)はとても人格が素晴らしい方ですから。だいたい運転免許証を持ち合わせていないと理由でわざわざ車から降りてちゃんと取りに帰られるですよ。ここまで法に厳格な方が絶対に権力の濫用なんてしませんよ。新天皇陛下も国家のトップ(象徴としての)たるにふさわしい方なので二重権力状態にはならないでしょう。仮にそんなことになろうものなら宮内庁か内閣が水面下で全力でとめるはずですからね。安心して令和の御代の安寧を祈りましょう。

ゆえに平成の天皇陛下上皇として存在しても全く悪いことなどありません!