未来の日本史博士の時典

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何故藤原家は衰退したのか?

どうも未来の日本史博士です。

今回はどうして藤原摂関家は衰退したのか?について解説していきます。前回の記事で読んでいただけば分かるように後三条天皇の即位に伴い、徐々に衰えていくことが分かりますよね。今回はどうしてこうなったのかじっくり解説していきます。

前回の記事についてはこちらから。

gonikyuroku.hatenablog.com

頼通VS教通

そもそも藤原氏の中で一騒動あったんです。後朱雀天皇の治世下で教通が頼通ら藤原一族の反対を押し切って娘を入内させたり、頼通が関白を務めている間に膝をつけて礼をさせられたりと忍耐もすさまじいものでした。そして彼らの父・道長の遺言で頼通が教通に藤氏長者藤原氏の棟梁の座)を譲らざるを得ず、その次の藤氏長者をそれぞれ自分の息子に継がせたい頼通、教通兄弟の確執は確実なものとなりました。

二つの勢力に分裂してしまった挙句、後三条に付け込まれて弱体化しました。

また藤原氏に不満を持っていた大江匡房中流貴族を後三条が重用したので摂関家の出る幕が無くなりました。

Oe no Masafusa.jpg

大江匡房

外戚になれなかった頼通・教通

先代後冷泉に頼通から藤原寛子が入内したものの皇子は生まれず、教通から歓子が入内して皇子が産まれたもののその日のうちに亡くなってしまいます道長後一条天皇などのように孫を天皇にして実権を握っていました。この方法ができず、仕方なく後三条天皇の即位に至りました

延久の荘園整理令

後三条天皇

今まで荘園整理令を出した天皇は数多くいたものの藤原摂関家道長、頼通)らに遠慮して結局何も変わらなかったのです。「不輸不入の権」を行使して藤原氏の荘園から税は取れませんでした。藤原氏はこれを利用して財産を蓄えていたのです。じゃあどうして簡単に藤原氏の荘園に手を出すことができたのか?先に言っておきますと「藤原氏外戚ではないから遠慮がいらなかった」なんて言われますが藤原氏とのつながりは多少はあるので以前の天皇よりは行動しやすかっただけです。

それよりも藤原教通が仲の悪かった兄・頼通の所領を減らせると考え、許可してしまったのです。それもあって荘園の整理が進み衰退に向かっていったのです。

まとめ

藤原氏の衰退は大きく分けて3つ

藤原氏の中での騒動

・頼通、教通の娘が皇子を産めなかった

・荘園整理令

いろんな要因が重なって藤原氏の衰退、次回以降解説する院政につながっていくのです。

 

次回は白河天皇の治世についてです。

 

アウトドアのすすめという名前の通りアウトドア専門のブログを立ち上げたのでぜひぜひ目を通してください!よろしくお願いします。

摂関政治の崩壊の始まり

どうも未来の日本史博士です。

今回は藤原氏による摂関政治が崩壊する最初の段階の時代を解説します。

20数年越しの即位


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藤原頼通と弟・教通は後冷泉天皇に娘を入内させたもののどうも子供が生まれることがなく仕方なく先代後朱雀天皇道長と仲の悪かった三条天皇の娘である禎子内親王との子・尊仁親王東宮に立てたものの頼通は認めようとせず、雲行きが怪しかったのです。

しかし、後冷泉が亡くなると一気に形成が逆転し、尊仁が後三条天皇として即位します。「170年ぶりに藤原氏外戚としない天皇の即位」なんて言われますが、曾祖父が道長なので縁がないわけではありません

摂関家を気にもとめない行動

摂関家がなぜ発展できたのか?もちろん運や政敵を排除できたことも大きかったですが、なによりも所有する荘園が多く存在していたことが重要になってきます。やっぱり税収が多いとおのずと発展しますよね。それを抑えるべく後三条は荘園整理令を発令します。この功績が後世評価され教科書にも載るほどになります。記録荘園券契所を設置してたとえ摂関家の所有している土地だとしても否応なしに、徹底的に整理して弱体化、土地利用の正常化を図りました。また身分にとらわれず中流貴族を登用したり、度量衡を整備して「宣旨枡」なるものを作ったりしました。その他たくさんの経済策を実行しました。

後継者選び

後三条には二人の皇后がいました。一人は源基子です。苗字の通り藤原氏とは何の関わりがなく、生まれた子供を立太子させましたが15歳でなくなってしまいます。もう一人が藤原茂子です。またもや藤原氏か?と思うかもしれませんが、茂子は藤原摂関家の支流の閑院流(後の三条、西園寺、徳大寺家の祖)出身の人物でして摂関家との直接の関わりはなく、茂子との子が次の天皇・白河となります

白河天皇についての内容は次々回に解説します。

次回は「なぜ摂関家が衰えたのか?」について考察していきます。乞うご期待!

 

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藤原一族の野望#11 摂関政治の最高潮②

どうも未来の日本史博士です。

今回は道長、頼通親子の全盛期の摂関政治体制についてです。

≪今回の時代のキーパーソン≫

今回の時代の天皇 後一条天皇
後朱雀天皇
後冷泉天皇
在位1016年~1036年
在位1036年~1045年
在位1045年~1068年
時の権力者 藤原道長
藤原頼通
摂政太政大臣・准三宮
摂政関白太政大臣・准三宮

 

後一条天皇

道長には極めて従順な天皇でした。そりゃそうなんですけどね。道長に逆らえるわけがないですよね。だって即位した時の年齢が9歳ですよ!

道長の娘(後一条の叔母)威子を迎え(一条の皇后・彰子、三条の皇后・姸子を含め)「一家立三后」を実現させて祝いの席で有名な句「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という句を詠んでいます

 後一条が即位したと同時に道長は摂政に就任しましたが翌年に26歳の頼通に譲り太政大臣として実権を握り、その後は頼通は関白として権力を振りかざしました

道長の晩年はとにかく荘厳な法成寺を建築しそこで亡くなりました。

この時代で最も大きな事件は「刀伊の入寇」ですかね。海賊(女真族)が九州北部を荒らしまわったという事件です。ここで活躍したのが花山法皇に矢を放って左遷された太宰権帥・藤原隆家です。九州の豪族を率いて撃退を成功させたことに朝廷からの褒美がないとして訴えてきたことに対して道長側と実資(中立を貫き三条天皇の支援をした)側で論争が起こりました。結果実資の意見が通り道長側も寝返って褒賞を与えました。

後一条は威子を娶ったものの子宝に恵まれず、29歳の若さで崩御しました。

後朱雀天皇

三条の息子に位を譲るという取り決めを交わして敦明親王東宮に立てましたが道長の圧力に屈して辞任した、っていう話を前記事で書きましたよね。

その後任として東宮に立てられたのが後一条の弟・敦良親王です。後一条の崩御と同時に後朱雀天皇として即位しました。本人は厳格な性格だったようですが実権は頼通が握っていてまたしても傀儡のような存在でした。後朱雀には道長の娘・喜子を入内させて皇后になり息子・親仁親王を生んだものの、産後の肥立ちが悪く2日後に亡くなりました。もう一人、後朱雀に入内したのが三条と姸子の子・禎子内親王です。禎子は後に後三条天皇となる尊仁親王を生んで皇后になっています

この時代、比叡山延暦寺の開設者最澄の弟子・円仁と円珍が喧嘩して京都にまで影響が及びました。後朱雀の治世の中でも僧徒同士で争って騒動が乱発し訴状を出す、なんていう事件が起こり頼通に至っては自分の邸宅を焼かれています。

世が荒れたのが自分のせいだと考えていた後朱雀は疱瘡に罹ってしまいました。後朱雀と頼通の関係が悪化していたので頼通の異母弟能信と共謀して尊仁親王東宮に立てるように頼んで崩御しました。残念ながら後朱雀の後見は頼通が決めて尊仁は避けられました。

後冷泉天皇

結局親仁親王が即位したものの摂関政治の全盛中の全盛時代だったため言いなりになるしかなかったんです。そのため蹴鞠や管弦楽、和歌に没頭して朝廷や政治に関わろうとしませんでした道長の息子頼通と教通(頼通と同母弟、前述の能信とは異母弟)が娘を入内させ、もともといた中宮を含めて三人の皇后を並列していました。この三后立」という状況は後冷泉が史上唯一です。

前九年の役って知っていますか?1051年、つまり後冷泉の治世下に起こった戦乱です。源頼義安倍頼良を討伐したものです。事後、源頼義は安倍頼義の甥の宗任を連れて伊予に転出したようです。で、「安倍」って言葉に引っかからないですか?なんとこの宗任の子孫が今の首相・安倍晋三だと言われています。

この戦乱を含めて世の中が荒れ始め、末法思想が広がっていきます。同時に浄土信仰も広がって平等院鳳凰堂を代表する国風文化が完成するのです。

後冷泉は晩年に頼通の別荘だった平等院行幸した後に病気になり、翌年崩御しました。

次回後三条天皇の即位と摂関政治の崩壊についてです。

 

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藤原一族の野望#10 藤原道長と三条天皇の確執

どうも未来の日本史博士です。

今回は失明寸前の病に陥ってしまう三条天皇と孫の敦成親王の擁立をしたい道長の対立について解説します。

≪今回の時代のキーパーソン≫

今回の時代の天皇 三条天皇 在位1011年~1016年
時の権力者 藤原道長
藤原実資
准摂政
権大納言・右大将

 

中継ぎポジションの天皇

一条から譲位されて即位したのが、今回の主人公の三条になります。でも即位したころはすでに道長の全盛期。しかも孫を即位させようとしていました。三条は息子の敦明親王を即位させようとしていたので対立を繰り返したんですよ。

三条即位の儀式の時ですら道長に遠慮してほとんどの公卿が参列しなかったというだけあって相当寂しい思いをしたことでしょう。

緑内障に蝕まれる三条天皇

2人は対立を繰り返して政務は滞ります。道長有利の中、頼れる人物が藤原実資藤原実資は「小右記」という日記の作者として有名で、歴史的価値が道長の「御堂関白記」よりも高いとされています。)くらいしかおらず困り果てた三条にさらなる試練が襲いかかります。

それは緑内障。現代の人でもなかなか治りにくい病気ですよね。いろんな薬を試したようです。例えば水銀系の薬といった危険性の高い(副作用があるであろう)薬を服用していたようです。

それでも治る見込みはなく、悪化の一途を辿るだけになります。しかも道長は難癖をつけて身内を昇進させたり、三条主催の儀式に敢えて自分の宴会を重ねて妨害したりと攻撃し続けます。

もちろんそのうち圧力に屈して道長に政治の全権を譲りますが、尚も道長は執拗に迫り続けます

無念の親子

結果失明寸前の三条は政務が滞ることを理由に譲位しました。この時の条件が息子の敦成親王東宮(皇太子)に立てること。どうしても即位させたかったようです。

退位するときに心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな」という歌を詠みこれが百人一首に収録されています。

三条の後任として後一条天皇が即位した後、道長は約束通り敦成親王東宮に立てます。でも道長の親戚でない敦成は徐々に居場所をなくしていきます。後ろ盾も無かった敦成は父同様圧力に屈し東宮を辞退しました。とはいえそれなりに優遇したようで准太上天皇小一条院)の位を宣下して娘の寛子を与えています。

そして後一条の弟・敦良親王東宮に立て道長の思惑通り進んでいくのです。

次回、後一条天皇についてからです。乞うご期待!

藤原一族の野望#9 摂関政治の最高潮①

どうも未来の日本史博士です。

今回解説する時代は藤原道長が実権を握った最盛期の時代です。

前文で特記することはないのでさっさと解説に移りましょう。

≪今回のキーパーソン≫

今回の時代の天皇 66代一条天皇 在位986年~1011年
時の権力者 藤原兼家
藤原道長
藤原伊周
摂政
内覧(関白の実質の役職)
太宰権帥

 

兼家の後継者争い

権勢を誇った道長


f:id:gonikyuroku:20190613233327j:image藤原道長
しかし、彼は結構強引に物事を推し進めていたんですよ。

そもそも父・兼家が無理矢理花山天皇を退位させました。その後即位した一条天皇の摂政として兼家は権力を握るのですが、その死後、後継者争いが勃発します。

文字だけではとても分かりにくいので家系図を見て把握してください。


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まず兼家の子供ですが、長男・道隆と次男・道兼は病気によって亡くなります。4男の道長が生き残っています。続いて後の道長のライバルとなる道隆の子供たちです。伊周、隆家、定子がいます。定子が一条の皇后です。つまりこの時点で伊周勢が一歩有利だったのです。

そこで道長は攻勢に出ます。道長が実子の彰子を一条の中宮とします。(一帝二后の最初の例)ちなみに兼家の娘・詮子が2代前の円融の皇后となって一条の母となっています。そして詮子は道長の立場についています

ちょうどシーソーだったんですね。

花山法皇射殺未遂事件

伊周には愛人がいました。その人物を花山が横恋慕していると勘違いした伊周が隆家に相談したところ数名の部下を連れて花山の服の袖を弓で射抜いてしまいました。花山は恐ろしさのあまり黙っていたんですが、噂が広まるのは早いですよね。そんなわけで道長に情報が入り上手に利用、伊周・隆家兄弟を太宰府に左遷してしまいました。そうして道長に全ての権力が移ったのです。

一条天皇とその周辺


f:id:gonikyuroku:20190613233401j:image一条天皇

まず有名なのが定子に仕えた清少納言、彰子に仕えたのが紫式部ですね。また和泉式部たちもいました。こんな才女がいたからこそ国風文化が栄えたんですね。なお、一条は笛を嗜み、文化人として多くの人に慕われていたようです。

政治家では、道長を筆頭に藤原行成、公任、斉信、源俊賢の「四納言」と呼ばれた4人の秀才がいました。藤原公任は当代一の文化人で兼家も自分の息子たちは影すら踏めないと嘆くほどでした。(ちなみに道長はその中でも公任の頭を踏んでやる、と豪語していました。)

一条は道長とある程度仲良くしたようですが、三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し」という内容の書き付けが書いてあった遺品を見つけ、「藤原氏が世を乱しているのだ」と解釈した道長が燃やして捨てたという逸話が残っているので内心どう思っていたのやら…。

次回、三条天皇からです。

藤原一族の野望#8 道長登場前日譚

どうも未来の日本史博士です。

今回は日本史のなかでも屈指の有名人・藤原道長が登場するまでの流れについて解説していきます。

 

摂関家の傀儡

傀儡といって初めに浮かぶ人物って誰ですか?個人的には愛新覚羅溥儀清朝最後の皇帝・満州国執政)ですかね~。ラストエンペラーと呼ばれる人物ですね。少なからず知っている人も多いと思います。

ではなく、、、今回のメインは藤原摂関家の傀儡として操られていた花山天皇です。誤解のないように一応伝えておきますが道長が娘を入内させて産んだ皇子(後一条、後朱雀、後冷泉)なども全て傀儡ですからね。その辺りお間違いの無いよう。

ではざっと花山について紹介します。

藤原氏に騙された天皇

前回の記事で藤原兼家と仲が悪くなって円融が退位、花山が即位したところまで解説しました。花山は即位したものの花山のおじいちゃんの息子・義懐らが実権を握りました。結構活発に活動していて荘園整理令を発布したり、貨幣を流通を活発化させたりと様々な政策を実行しました。

でも、女御の藤原忯子が身ごもったまま亡くなると出家したいと言い出しました。そこで兼家の次男・道兼はともに出家しようと誘い、禁裏(天皇の住まい)から外出させて出家させてしまいました。

兼通は、というと父(兼家)に出家することを伝えてくるといったきり帰ってこなかったのです。「はめられた!」って気づいたんですかね?

兼家・兼通親子からすれば孫の懐仁親王(後の一条天皇)に即位してほしかったんですよ。

西国三十三箇所霊場

ん?って感じですか?那智青岸渡寺から始まるやつですよね。奈良時代に始まったものの忘れられていたんですよ。それを復活させたのが花山法皇です。

あるお寺には10年隠棲していたようですよ。

 

次回一条天皇の即位と藤原道長の登場です。

藤原一族の野望#7 村上源氏の没落と藤原氏の隆盛

どうも未来の日本史博士です。

今回は源高明そして冷泉院の次の円融院についてのお話です。ではさっそく解説始めます。

今回の時代の天皇 冷泉天皇
円融天皇
在位967年~969年
在位969年~984年
時の権力者 源高明
藤原実頼
従一位、正二位左大臣
正一位従一位摂政関白太政大臣
(詳しくは前記事参照)

 

安和の変


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源高明   源氏物語光源氏のモデルとも言われます)

ここでの登場人物は源高明です。彼は醍醐天皇の息子の一人で臣籍降下して源氏姓を賜っていました。前回の村上、冷泉時代の権力者であった藤原実頼の弟・師輔と交友があったようで、師輔の娘を娶っています。この後ろ盾を得た高明は急激に勢力を伸ばしていきます。ちょうど冷泉の即位とともに左大臣に就任します。その直前に自分の娘を冷泉の弟・為平親王に嫁がせています。

前回の記事で紹介した冷泉は奇妙な行動が多く、実頼は政務が心許ないということで関白に就任しました。で、実頼は考えます。皇位を早く交代すべきだと。まあそうですよね。という訳で皇太子を選び始めます。ここで候補に挙がったのが冷泉の弟の為平親王、守平親王の二人です。

さあどちらの親王が皇太子になったでしょう?

藤原氏が実権を握っているんです。だから為平親王よりは守平親王を選びますよね。それに憤慨した源高明は大いに失望したと。でもこの時すでに師輔は亡くなっていたんです。藤原氏は源氏勢力が天皇外戚になることを恐れたんですかね?

その後、謀反を起こそうとしているという内容の密告があり、藤原実頼によって太宰府に左遷。こうして完全なる藤原氏の独裁政治が始まります。この一連の流れを「安和の変」といいます。

摂関家に振り回された天皇

安和の変」によって担ぎ上げられた守平親王が円融として11歳なのに即位します。摂政は順に実頼、伊尹、兼通(伊尹、兼通は実頼の弟・師輔の子)が就任します。


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振り回されたのは何か?題名にありますがはたしてどういうことなのか?

まあ兄弟喧嘩です。兼通とその弟の兼家によるものです。この権力争いは今回は省略しますが、なかなかすさまじいもので、円融自身もかなり振り回されたようです。

やはり権力争いで重要になってくるのが天皇外戚になれるか、ということです。

最終的に両者ともに娘を入内させ、兼家の娘が後の一条天皇となる懐仁親王を産んで兼家が実権を握ることになります。

しかし、この争いに巻き込まれた円融は疲弊し冷泉の息子・師貞親王皇位を譲りました。

次回藤原道長登場です。乞うご期待!

個人的な話ですが、先日やっとpv数が1000を超えました!他のブロガーさんと比べても遅いのかもしれませんが、マイペースでのんびり運営していくことにします。これからもどうぞよろしくお願いします。

 

 

今後、アウトドアなどの趣味に関するネタの記事は別サイトで書くことにします。姉妹ページの方も何卒宜しくお願いします。サイトを作り次第、記事作りを活発化させていこうと考えています。

 

藤原一族の野望#6 乱・治・奇

どうも未来の日本史博士です。

今回取り上げる天皇三者三様です。とにかく全然違う性格の三人なのでぼんやりしているとこんがらがりますよ!では始めましょう!

≪今回の時代のキーパーソン≫

今回の時代の天皇 61代朱雀天皇
62代村上天皇
63代冷泉天皇
在位930年~946年
在位946年~967年
在位967年~969年
時の権力者 藤原忠平
藤原実頼
右大臣、左大臣
摂政関白太政大臣

 

「乱」が起こった時の天皇

一人目は朱雀天皇です。菅原道真の祟りを恐れて3歳まで几帳の中で育てたそうです。即位したのは930年です。時代的にどんな乱か想像できますか?

中学校の授業でも習う平将門の乱藤原純友の乱です。中央は藤原氏で固められていても地方はまだまだ荒れていたんですね~。この時政務を執り仕切っていたのが前回一瞬登場した時平の弟・忠平です。忠平は討伐軍を送り二つの乱を鎮圧させました

朱雀治世下に起こったことの他に富士山の噴火、地震などの災害もありました。しかも朱雀自身病弱で皇子にも恵まれなかったので嫌になったのか弟に譲位したそうです。

(ちなみに朱雀は後に後悔して復位を企んだこともあったようです)

醍醐に続く親政

朱雀に譲位されたのが村上天皇です。忠平の死後摂関を置かなかったので「天暦の治」として後世に評価されています。実際は忠平の息子の実頼に干渉されていたようです。村上の治世下には財政再建を図っています。その理由は簡単。朱雀の時代に二つの乱があったからです。貴族たちの給料を減らし、物価対策に取り組むだとか、さらには最後の「皇朝十二銭」である乾元大宝を作ったりしました皇朝十二銭っていうのはその名の通り朝廷が作った銭貨です。村上治世下で最後に鋳造して以降豊臣秀吉政権下なるまで中国の銭貨を輸入していました。

村上は文化面でも大きく貢献しました。「御撰和歌集」の編纂を命じたりと和歌の保護に努めました。さらに琴や琵琶も得意だったらしく国風文化の発展に貢献しました。

ちなみに村上天皇の息子・具平親王の子孫が村上源氏を創設しました。鎌倉幕府を築いた源頼朝といえば清和源氏です。しかし清和源氏は武士として成功するも滅亡します。その反面公家として成功したのが村上源氏です。後の時代の事件に関与する形で歴史上に登場するので今回は割愛。

ちなみに「村上」といった諡号はこの天皇が最後で、江戸後期の光格天皇まで「〇〇院」といった院号がつけられていました。

世にも奇妙な冷泉院

世の中にはいろんな性格の人間がいますよね。天皇家でも例外はなく、ここで紹介する冷泉天皇はとても奇妙な行動が多かったようです。例えば一日中足が傷つくまで蹴鞠をしたり、火事で避難している時に牛車の中で大声で歌ったりと…現代からみてもちょっと変ですよね。理由はいろいろあると考えられています。狭い狭い内裏の中で束縛の多い生活を送っているから、とかですかね。

これを踏まえて藤原実頼大極殿で行っていた即位礼を内裏の中の紫宸殿で行い、簡略化しました。これ以降、昭和天皇の時代まで紫宸殿で即位礼が行われました。

冷泉院の時代の政務と村上源氏の事件は次回解説します。

藤原一族の野望#5 延喜の治

どうも未来の日本史博士です。

今回は鎌倉時代後醍醐天皇が称賛し、参考にした醍醐天皇の延喜の治についてです。普通は崩御した後に諡号(例えば神武や仁徳)を贈るのですが、(つまり在位中の天皇陛下今上天皇と呼ばれています)後醍醐は自分で諡号を決めていました。それくらい参考していたようです。前置きはこれくらいにして本題に移りましょう。

≪今回のキーパーソン≫

今回の時代の天皇 醍醐天皇 在位897年~930年
時の権力者 藤原時平
菅原道真
左大臣
右大臣
正一位太政大臣

 

 

醍醐天皇の出自


f:id:gonikyuroku:20190602055843j:image醍醐天皇

驚くなかれ。醍醐はもともと臣籍の人物でした。そもそも父・宇多天皇源定省という名前で臣籍でした。その臣籍時代に醍醐が生まれたのです。だから生まれから臣籍だったのです。源維城(これざね)という名前でした。父・宇多の皇族復帰に伴って維城も皇族に復帰して敦仁に改名しました。その後立太子した時に宇多から下賜されたのが壺切御剣です。以降天皇即位に受け継がれるのが三種の神器立太子の時に受け継がれるのが壺切御剣、という伝統が生まれました。

とにかく唯一生まれから臣籍だったのは醍醐だけなんです。

では事績について解説します。

菅原道真藤原時平


f:id:gonikyuroku:20190602055915j:image菅原道真百人一首では菅家)

醍醐治世下では時平を左大臣、道真を右大臣にして摂政関白を置かない政治を行いました。摂関をおかず、自ら政務を執ったので「延喜の治」と呼ばれます。ちなみに天皇自身が行う政治のことを親政と呼びます。

宇多が譲位した時に前回の記事に書いた藤原基経との確執のような出来事が今後起こらないように菅原道真を積極的に登用しました。でも、藤原一族は不満ですよね。そこで時平は行動を起こします。

昌泰の変

時平は道真が自分の娘婿であり、宇多の子・斉世(ときよ)親王(つまりは醍醐の弟)を立太子させようとしていると醍醐に讒言しました。そして即座に醍醐は道真を太宰権帥として左遷しました。この時に詠んだ「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という和歌はとても有名ですね。

本題に戻りましょう。道真の左遷を知った宇多上皇は内裏に向かったものの閉じられていて醍醐に面会することができず、道真の後ろ盾である宇多は何もできなかったわけです。

現在では醍醐陣営が宇多陣営の勢力を削ぐために宇多が信頼していて代弁者とみなされていた道真が左遷されたともいわれています。

天神様の誕生

死後、突然の病で政敵・時平が死去します。それに続いて道真を陥れた人物が亡くなっていきました。さらに930年(延長8年)に清涼殿に落雷し多数の死傷者が出る事態となりました。それを見た3か月後に醍醐も崩御しました。すると貴族たちが道真の祟りだと恐れ始めました。ついに朝廷は道真を赦して正一位太政大臣の位を与えました。ここには時平の弟であり、道真と仲が良かった忠平が関与していたともいわれています。

北野天満宮をはじめ各地で天神信仰が盛んになり勉学の神様となってたくさんの人々から信仰を集めています。


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醍醐の文化振興

以前紹介した六国史の一つ「日本三大実録」の編纂を命じ、かの有名な「古今和歌集」の編纂にも着手しました。さらに律令制基本法である「延喜格式」をまとめました。ちなみに在位中に道真の進言で遣唐使を停止(唐が滅んだため事実上の中止)して、時平は荘園整理令の整備に尽力していました。

まとめ

ここまで活発に行動をおこした天皇は歴代でも珍しいですね。だから後醍醐天皇も醍醐親政を見習ったんでしょうね。

次回以降も乞うご期待!

藤原一族の野望#4.5(番外編) 宇多天皇から考える皇位継承

どうも未来の日本史博士です。

最近皇室に関するニュースが多いですよね~。

その中でも今後の皇位継承について提起されてる話題も多いな~って思っています。一般人がとやかく言う問題ではないですが、皇位継承について前記事の宇多天皇を参考にして考えていこうと思います。

 

皇位継承に関する問題点

そもそも皇位天皇の位)を継承できるのは皇統の男系男子のみと皇室典範(皇室について規定が書かれている法律)に定められています。つまり皇位を継承できるのは少なくとも父親が皇族の子供に限ります。そうなると現在天皇になる可能性があるのは秋篠宮文仁親王殿下(天皇陛下の弟、皇嗣)、その子・悠仁親王殿下、常陸宮正仁親王殿下(上皇陛下の弟)の三名だけです。こういった話をするのは失礼ですが、50年もすると断絶する危機に陥ることが考えられます。

女性天皇について

そういう訳で今後どのようにして皇位を継いでいくのかを可及的速やかに決める必要があるわけです。そこで天皇陛下の娘の愛子内親王殿下をはじめとする女性皇族を皇位継承権を与えようという議論が活発になってきています。しかも女系天皇女性天皇かで話は変わってきますよね。という訳で今回は割愛。いつかお話します。

皇籍に復活して即位する

今回の本題はここです。それこそ宇多のケースです。一度皇籍離脱した旧皇族を再び皇籍に復活させて立太子、即位させる案です。ここで持論を述べ続けても何も変わらないのでとりあえず継承できる可能性のある、太平洋戦争に敗北した後GHQの指令臣籍降下した11の宮家について解説します。

臣籍降下皇籍離脱)した宮家の紹介

 1 伏見宮


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室町時代に創始された家柄です。そのため筆頭家です。普通は2~3世の孫になると親王宣下されなくなるんですが、世襲親王家という格についていたため親王の位に就き続けました。本来の役目である皇統が断絶しかけた時に跡継ぎを輩出することを実際にする羽目になってその血統が現在にまで続いています。

ちょうど皇籍離脱した時の当主は26代博明王です。曾祖父・祖父共に海軍大将に就任しています。

2 閑院宮


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(始祖直仁親王

江戸時代に新井白石の進言によって設けられた役職です。こちらも世襲親王家であり、2代・典仁親王の息子が光格天皇になりました。そして光格が典仁親王太上天皇の位を与えようとして松平定信と喧嘩した、いわゆる尊号一件が起こりました。f:id:gonikyuroku:20190531074942j:image

光格天皇

皇籍離脱した時の当主は7代春仁王です。歴代当主の中には陸軍大将を輩出したこともあります。ちなみに春仁王は皇籍離脱に反対していました。

3 山階宮

江戸時代の末期に伏見宮邦家親王の息子から創設された宮家です。

皇籍離脱した時の当主は3代武彦王です。

4 北白川宮

明治初期にこちらも同じく伏見宮邦家親王の息子から創設された家柄です。もともと聖護院宮という名前で初代が改称しています。この家で有名なのは2代目の能久親王ですね。

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輪王寺宮という別名でも有名でして、奥羽越列藩同盟の盟主にも担ぎ上げられています。最期は台湾に出征している途中に陣没して皇族として初めて国外で薨去した人物としても有名です。台湾に能久親王を祀った神社があります。

皇籍離脱した時の最後の当主は5代道久王です。2,3,4代目が順番に台湾陣没、パリで自動車事故、戦時中に飛行機の不時着で亡くなっているので不運の家柄と言われていました。

5 梨本宮家

明治に入って伏見宮貞敬親王の息子から創始されました。この家はある点でとても有名です。それは後程。

皇籍離脱した際の当主は3代守正王です。そしてその娘の方子女王が有名であろうと思われます。改名した後は李方子と呼ばれました。

f:id:gonikyuroku:20190531075309j:image(李方子)
あれ!?「李」??と思ったあなた。宋なんです!大韓帝国最後の皇太子・李垠(リ・ギン)と政略結婚します。当初は嫌で泣いたそうなんですが、意外にも(?)仲は良かったらしいです。終戦後は韓国人として七宝焼を作ったり、障害児の教育の普及に専念して後に韓国側から功績を認められています。

6 久邇宮

こちらは香淳皇后を輩出した家としてゆうめいです。


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昭和天皇香淳皇后

皇籍離脱した時の当主は3代朝融王です。

7 賀陽宮

久邇宮家を創設した朝彦親王邦憲王が創始し、次の代の恒憲王の時に皇籍離脱を命じられて断絶しました。子孫は天皇陛下の同窓生であり、外務省に勤務しているとか。

8 東伏見宮

伏見宮邦家親王の子・依仁親王が創設しました。しかし、養子をとることは禁止されていたので、依仁親王薨去してしまい断絶しました。一応祭祀を継承するために先ほどの久邇宮朝彦親王の孫・邦英王が臣籍降下して東伏見邦英として跡を継ぎました。

9 竹田宮

テレビによく出演していますよね。北白川宮邦彦親王の子・恒久王が創始しました。その次の恒徳王の時に皇籍離脱しました。ちなみに恒徳と子供の恆和がIOCの委員を務めています。恆和の子・恒泰は男系維持論を唱えてワイドショーなどにも積極的に出演しています。

10 朝香宮

先ほども出てきた朝彦親王の息子・鳩彦王によって創始されました。その次の代の孚彦(たかひこ)王の時に皇籍離脱しました。

11 東久邇宮

またも朝彦親王の子が創設した家です。その当主の時に皇籍離脱したので、一代限りの宮家となりました。それが稔彦王です。

f:id:gonikyuroku:20190531203627j:image東久邇宮稔彦王
稔彦王は43代総理大臣になりました。(史上唯一の皇族首相・史上最短)

まとめ

伏見宮家はとても長い血統があり、血筋もそれなりに離れていますが、割と近い血統の家もあります。継承できる可能性のある人物もあります。皇位に復帰するならば当人の性格がいいか、とかも考慮すべきだと思いますが、ここでは省略。

もう間もなく政府が女性天皇などの問題について行動を起こすと思います。その時までも、それからも増々ニュースに目が離せませんね!

 

次回以降も乞うご期待!